『イヌの日』









タイトル:  『イヌの日』



作:  長塚圭史



演出: 松居大悟


■■出演


尾上寛之


玉置玲央


青柳文子


大窪人衛


目次立樹


川村紗也


菊池明明


松居大悟


本折最強さとし


村上 航


加藤 葵


一色絢巳



■■スタッフ


美術:片平圭衣子
照明:松本大
音響:加藤温
音楽:森 優太
衣裳:高木阿友子
ヘアメイク:大宝みゆき
演出助手:川名幸宏
舞台監督:川除学 浦本佳亮
演出部:松尾明日望
照明:中佐真梨香
音響操作:岡田悠
大道具製作:C-COM舞台装置
小道具:高津装飾美術
協力:至福団 松本デザイン



■■日程・場所


2016年8月10日(水)〜 8月21日(日)@下北沢 ザ・スズナリ






 《感想文:なぜ広瀬なのか?》



2016年8月14日(日)SMAP解散発表!!






月曜日から仕事が大変なことになるとわかっていたので、劇場を足早に立ち去り次の日に備えていたのだが、わかっていた通り大変なことになってしまって、怒涛の渦にかんぜんに巻き込まれてしまった。これからどうなってしまうのだろう。



えっ! あれから、もう一週間たつのか!?



あの日観た舞台はなんだか時間が止まっているようだった。小学校の初恋の女の子を15年間防空壕に監禁するという物語。阿佐ヶ谷スパイダース長塚圭史(1975年生)作の戯曲をゴジゲンの松居大悟(1985年生)が演出したという舞台。



長塚圭史とは同い年ということもあって前々から興味を持っていた。きっかけはやはり父親の長塚京三だった。テレビドラマにもよく出ているから当然知っていたのだが、長塚京三に興味を持ったのは、確か日経新聞に文章を連載していた時があって、その文章がすごくよかったからだ。今はスクラップブックを捨ててしまったから、すぐにその文章は出てこないけれど、ナチュラルな語りのなかに知性が感じられる文章で、俳優のふだん見られない一面を垣間見たようで印象に残っている。



私の老年前夜

私の老年前夜



長塚圭史(1975年生)との接点はあまりない。実は阿佐ヶ谷スパイダースを僕はまだ観たことがない。同世代で言えば、チェルフィッチュ岡田利規(1973年生)やハイバイの岩井秀人(1974年生)や五反田団の前田司郎(1977年生)はよく観たし、影響を受けた。対して、長塚圭史と言えば思い出すのは、30歳代の前半に本屋で働いていた頃、ちょうど同い年くらいの作家や研究者の単著が出版されはじめたのでフェアを打ったとき、戯曲を出版している数少ない劇作家であったということ。おそらく同世代の劇作家のなかでは最も早く評価された劇作家ではなかろうか。だから彼から感じる世代の空気というのは、岡田や前田のようにトレンドから一線を画する、時代を斜に構えて見るような感じではなく、それこそDragon Ash降谷建志m-floが持っている空気。タレントで言えば、木村拓哉武田真治内田有紀一色紗英あたりの僕らの世代をリードするというか、ちょっと粋がっていて、とんがっている、そんなかんじの空気。








小学校の初恋の女の子を15年間防空壕に監禁するという物語




この触れ込みを聞いて、さすがに横井庄一を連想することはないし、「防空壕」というところに引っかかるのはおそらく戦後世代であろう。70年代中頃生まれの僕らがひっかかるのは「小学校の初恋の女の子」というところで、すぐに思いつくのは連続幼女誘拐殺人事件の宮崎勤。だから、『イヌの日』もまずは異常性愛、ロリコンといった文脈で観てしまった。



ただ、これはすぐに違うと分かる。監禁されている少女が傷めつけられている訳ではなく、また死の恐怖に怯えている訳でもない。生き生きとまでは言わないが、防空壕のなかで何不自由なく暮らしている。はじめはこの状況をちょっと理解できなかったけれども、このような形で関係が安定することもあり得るとは思えた。さらに防空壕のなかでは、この菊沢という少女以外に、柴という少女、孝之と洋介という少年も暮らしている。小学校の初恋の女の子である菊沢を監禁した中津という男が、菊沢のお願いを聞くかたちで、さらに3名を監禁したということらしい。



監禁という言葉から感じられる暴力的なイメージ


防空壕のなかで健気に戯れる監禁された少年少女たち

パンフレットのなかで、長塚圭史は「誰に嫌われても構わないと腹を決めて書いた暴力性」とこの作品について述べている。しかし、この暴力性は、暴力性という文脈で言えば歪んでいないか?



確かに暴力性という意味では、「イヌの日」で描かれている地上の世界、いわゆる我々が過ごしている日常の世界、そこに出てくる人々のすさんだ生活は暴力と共振している。女の性質をうまく利用して金をせびるヒモ男(明夫)、そんな明夫にお金をあげてしまう、愛情の注ぎ方をコントロールできず、間違った方向へ間違った方向へ注いでしまうダメ女(陽子)、良識の持ち主で一見まともに思えるけれど、いったい何をしたいのかよく分からない、主体性の弱い優柔不断男(広瀬)、ちゃんと仕事についていて、もっとちゃんと自立できそうなのに、いつまでもだらだらとぐだぐだとつるんでいるその名の通りのクズ男(九頭)、そして少年少女を監禁している男(中津)、少年少女を監禁していることはもちろん隠している訳だが、日常の彼も気性が荒く、喧嘩っ早い。イージーゴーイングな質で、ヤクザ映画でいうところの典型的なチンピラである。



これは特に世代どうこうではなく全世代共通な負のイメージかもしれないけれども、90年代前半のバブル期から90年代後半までは、こういった生きることに前向きになれない若者の荒んだ姿というのは一定のリアリティーを持っていたように思う。対して2000年代初期の就職氷河期以降は、こういった悪ノリをする若者はいるにはいるけれども、若者たちの多勢がよのなかの流れに従順になったように感じられる。





地上 / 地下




『イヌの日』を観ていて感じたのは、少年少女を監禁している中津の暴力性、狂気、異常さよりも、この作品の核は「地上(我々の日常)/ 地下」との対比であるということだった。例えば、東京タワーの展望台に登ったときに感じたことだが、そこは地上の喧騒から隔離されていて、時間が漂って止まっているような、何年も前の昔の東京に来たようだった。



この作品の地下、防空壕のなかもまさにそんな感じであった。先ほどから僕は監禁されているのは少年少女と書いているけれども、監禁されているのは中津の小学校の同級生の菊沢であり、監禁されてからもう15年も経っているので、年齢的にも30歳に近い。ほかの3名も同じくらいの年齢だから、同じく少年少女ではない。



菊沢を演じたのが青柳文子(1987年生)であり、洋介を演じたのが大窪人衛(1989年生)であり、孝之を演じたのが目次立樹(1985年生)であり、柴を演じたのが川村紗也(1986年生)であった。彼彼女らは実年齢がちょうど30歳前後なのだけど、見た目が30歳には見えない。当然役作りということもあるだろうが、彼彼女らのなかでどこか時間がとまっているような不思議な感じがした。この作品で一番惹かれたのは、まさにこの止まっているはずがないのに止まっているように見える「いま、ここ」の空気だった。



『イヌの日』は先ほどあげた幼女連続誘拐殺人事件ではなく、10年近く監禁し、2000年に犯人が捕まった新潟少女監禁事件がモチーフになっているようだ。いま、ウィキペディアで調べて読んだのだが、約10年にわたって少女を監禁する状況は、動物園の飼育員が飴と鞭で動物を手なづけるプロセスとまったく同様であり、はっきり言って異常である。しかし、『イヌの日』ではこの異常さにはあえて踏み込んでいないと感じられた。確かにこういった異常さをとことん掘り下げてみるのも興味深いとは思うが、そっちへ行くのではなく、ここに立ち上がった空間を描くことに徹した長塚圭史の判断こそが最も興味深い。





デストピアユートピア




「地上/地下」の二重構造、「表層/深層」の二重構造。よのなかもこの様であり、人のこころもこの様である。このような二重構造を描いた傑作をあげるならば、この2作品だろうか。



羊たちの沈黙




ドラゴンタトゥーの女




興味深い作品に違いないが、いずれも異常性愛者を描いている。つまり監禁者であり、殺人者である人間の内面に迫るという意味での傑作である。例えば、「ドラゴンタトゥーの女」の犯人像、北欧のスタイリッシュなミニマリスト、完璧主義の潔癖性であり、自己陶酔性が強いという特徴付けには説得力がある。彼がEnyaを聴きながら自己の感情を高ぶらせるシーンは印象的である。








しかし、わざわざEnyaを流してみたけれど、『イヌの日』の中津とEnyaはまったく相容れないし、そもそも中津は音楽を聴くような趣味を持っているようにも思えない。15年にも渡って人を監禁するというこの異常な状況を引き起こしたのは中津に違いなく、そういう意味では彼はキーマンであるに違いない。ただ、やはり彼には大して興味は持てないし、彼を掘り起こしても何もでてこないとさえ思える。極論を言えば、『イヌの日』において犯罪者の中津はどうでもよく、繰り返すが重要なのは、彼によって引き起こされた世界であり、この世界を読み解く上で、非常に重要な役割を果たしているのが俳優である。





俳優 / 登場人物




今回の『イヌの日』は、公演前からインタビューや対談、稽古場レポートや役者紹介などがあり、いい感じで観劇日を迎えることができた。


レポート




《舞台》イヌの日


この作品は、俳優がどのように登場人物に入ってゆくのかがすごく難しく、しかしながら、そこが一番の見所だと感じられた。俳優同士が話している姿を普段はなかなか見られないので、対談は非常に興味深く読んだ。俳優みんなが試行錯誤して、稽古でいろいろ試したり、失敗したりして、アジャストしてゆく。俳優のこの営みは観客としてもすごくワクワクするし、ものづくりをしている僕の視点に引きつけて観ても、ぐっとくる。



台本を読んでその人物がすっと入ってきたかと思うと、しかしそれが逆に悩ましくなる。成る程、分かる気もするが、ここは俳優の感性が一番出るところだから、そういうふうに安易にわかったと思わないで、俳優の演技をつぶさに観ようと思い、観劇した。



そして、実際にかなり事細かに観たのだが、やはり分からなかったのだ。何が分からないのかと言えば、防空壕のなかで暮らす4人、菊沢、柴、洋介、孝之がしらふなのか? 演じているのか? 本心がどこにあるのか? また本心は本心なのか?



地上との対比という意味では、地上はディストピアであり、地下はユートピアと言える。しかし地下という空間だけで考えるならば、そこは純粋なユートピアではやはりない。死に限りなく近いという意味ではディストピアであり、しかしながら、逆説的に最もユートピアと言える空間でもある。いったいどっちなんだ???



この分からなさをいい意味で表現しきったのは、1975年生の長塚圭史自身が演出するのではなく、1985年生まれの松居大悟が演出したからであり、俳優陣も1985年前後生まれだったからだろうか?



世代というのは、5年間隔くらいに違いを感じる。僕の生まれた75年はベッカム世代なのだけど、5年下の80年生まれは松坂世代と呼ばれていて、やはり彼彼女らとは世代の違いを感じる。ただ最近はお互い歳をとってしまったので以前ほど違いを感じなくなった。しかし、さらに5年下の85年生まれあたりは、やはり違うし、正直分からない。年齢的には彼彼女らももう30歳だから決して若くはないしギャップを感じないけれど、何に影響を受けてきたのか?どのように時代の空気を感じながら生きてきたのか? 彼彼女らのメンタリティーはどうなのか? さっぱり分からない。



そういった文脈もあって、今回の舞台『イヌの日』は、世代の違う俳優たちを感じるという意味で貴重な機会であった。しかし、この作品だけで決め付けるのは、やっぱりやめようと思う。彼彼女らの演技を今後も観てゆくなかで、彼彼女らとの違い、あるいは同一性を感じ取れればいいように思う。



そして、今回、もっとも気になった俳優は、目次立樹(1985年生)と玉置玲央(1985年生)のふたり。目次立樹は今回初めてみた俳優だが、何が気になったかというと、この人、文章がすごくうまい。


目次立樹レポート




キャスト紹介


先にあげた長塚京三と同様、俳優は演技するのが仕事だけれども、考える力は当然必要になるし、彼くらいの文章が書けるということは、考える力、表現力のポテンシャルが高いという証だろう。それこそ目次立樹は長塚京三くらいに化けるかもしれない。注目したい。



もう一人、玉置玲央。彼の舞台は何度も観たことがあるし、おそらく、この世代の俳優のなかで一番うまい。俳優としての天性の明るさとプロとしての飽くなき探究心を兼ね備えている。彼がいったいどこまで伸びてゆくのか? 観てみたい。





中津 / 広瀬




玉置玲央に触れたところで、『イヌの日』についてもう1点加えておく。長塚圭史により描かれたこの作品は、やはりよくできている。単なる舞台作品というのではなく、世界がちゃんと表現されている。構造がしっかりしているし、簡単には解釈できない謎めいたところもある。



戯曲の構造ということで言えば、やはりシェイクスピアが頂点と言うべきであろうし、確かに『イヌの日』はシェイクスピア作品ほどの緻密さや複雑さはない。しかし、「地上/地下」、「表層/深層」の二重構造と双方の関係の仕方、それぞれの登場人物の性格付け、異なる時間の流れの交錯など、ものすごくうまく設計されている。そして、先ほど謎めいたと言ったのは、玉置玲央が演じた「広瀬」という存在である。



『イヌの日』で描かれている世界を引き起こしたのは中津である。そう言った意味では中津が主人公であり、中津を中心にこの世界は動いている。しかし中津は途中ほとんど出てこなくなるし、その間、誰が中心になっているかと言えば、広瀬なのだ。



この広瀬という人物がよく分からない。何が分からないのかと言えば、そもそも、この作品に広瀬は必要なのか?ってこと自体が分からない。こいつは一体なんなんだ? 中津は監禁している張本人だし、陽子と明夫はダメ人間の典型として、地上世界を描く上で必要だし、そのほかの人物も何かしら特徴を備えている。しかし、この広瀬っていうのは何の特徴もない。いてもいなくてもいいはずなのに、実はこの作品は広瀬の視点で描かれている。主人公は誰か? と問えば、広瀬ということになる。



これが『イヌの日』という作品の構造のなかで一番謎めいている点であって、一番興味深い点である。



うまくまとめてしまうと、これは広瀬の夢であった、あるいは広瀬の「表向き/心のなか」を「地上/防空壕」という形で描いているということになるけれども、そうであっても広瀬のポジションというのは、やはりおかしいし、謎めいている。



なぜ中津ではなく、広瀬なのか?










非常に見応えのある傑作でした !





明日が千秋楽かー!





もっと観劇をオススメすればよかった!





皆様もぜっひ!!!!!





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《舞台》イヌの日



















阪根タイガース


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