僕たちが好きだった川村紗也『ゆっくり回る菊池』






    




《演劇》僕たちが好きだった川村紗也




タイトル:『ゆっくり回る菊池』



作・演出: 青木秀樹クロムモリブデン


■■出演


川村紗也


多田直人(演劇集団キャラメルボックス


枝元萌(ハイリンド)


幸田尚子


折原アキラ(青年団


根津茂尚(あひるなんちゃら)


吉増裕士(ナイロン100℃ / リボルブ方式)



■■スタッフ


舞台監督:櫻井健太郎 藤田有紀彦
舞台美術:坂本遼
音響:星野大輔(サウンドウイーズ)
音楽:岡田太郎(悪い芝居)
音響操作:櫻内憧海
照明:床田光世(クロムモリブデン
衣装:杉浦優(ザ・ボイス)
演出助手:入倉麻美 小林弘幸(新宿公社)福名理穂(ぱぷりか)
稽古場代役:本折最強さとし
映像・小道具・おもくじフィギュア:辻朝子
記録スチール:久富健太郎
制作:会沢ナオト
広報宣伝:kei.K
宣伝美術:デザイン太陽と雲
宣伝写真:引地信彦
宣伝ヘアメイク:Sai
WEB:小林タクシー(ZOKKY)

パンフレット
構成・デザイン:樋口舞子
写真撮影:引地信彦(P.2,PP.8-14)久富健太郎(PP.15-19)
インタビュー/記事:おとむ
イラスト:望月裕実(P.20)
制作:中島順子
印刷:大洋印刷

企画・制作:僕たちが好きだった川村紗也


■■日程・場所


2016年11月22日(火)〜11月27日(日)@こまばアゴラ劇場






 《感想文》




先週観た演劇の感想文を書いたろと思っとってんけど、ゴルフの試合観に行ったら疲れて寝てもうた。



今、めっさ考えとるから、あと1週間くらい待ってなあ。






でも、ま、あれやな



たぶんやけど、



『ゆく菊』は、クロムの青木さんが「ボク川」という言葉の響きから、


青:「『アナ雪』を連想して作ったら、こんなんできましたけど!」



客:「おいおい、どこが『アナ雪』やねん!」



青:「いやいや、結婚を控えた姉妹の話ですやん、一緒ですやん」



客:「妹はまだしも、あの姉はないやろ、アナでも雪でもあらへんやん」



青:「なにいうてはりますねん、あの姉ディズニーにちゃんとおりますやろ、何って名前でしったっけ、えーと、えーと、何でしたっけ?」









客:「プーさん!」



青:「そう!それそれ!愛嬌があってかわいいヤツですやん」



客:「もう、なんでもええわ、勝手にせえやホンマに...」



青:「ま、そう怒らんと、感想文できるまでこの曲でも聴いて待っといてーな」













1週間後



客:「ありのままのー ♪」



青:「ええ歌でっしゃろ」



客:「はっ? あんたに言われんでもわかっとるわい」



青:「あっ、そうでっか。ところで、あんさん、『ゆっくり回る菊池』は観てくれはったんかいな?」



客:「観たで。ちゃんと観たで」



青:「そないでっか。おおきに!」



客:「あれ、あんたが書いたんやって?」



青:「そうですねん。よくできてまっしゃろ」



客:「ま、よくできてる、できてないっていうタイプの芝居やないけどな」



青:「ほほー、お客さん、お目が高いですなー」



客:「あれ、なんか変なやつばっかり出てきたなー」



青:「といいますと?」



客:「なんや、指から銃弾をぶっ放す小娘然り、二枚目やねんけど残念な感じの男然り、結婚結婚ばかりゆうてる若井小づえみたいな女然り、目がギラギラして「わたくし、悪いことをたくらんでおりますわよ」って顔に書いてある女然り、ちょろちょろ動く挙動不振の男然り、単刀直入にあやしいカウンセラー然り、幽霊然り....」



青:「みんな、ありのまま、でっしゃろ」



客:「おっ! 青木はん、うまいことゆうなー」



青:「『アナ雪』そのまんまでっしゃろ!」



客:「ホンマやわ〜、ってオチつけるの早すぎるやろ!」



青:「つかみはOK!」



客:「おいおい、それ、関西のノリちゃうやろ」



青:「人類みな兄弟。笑いに西も東もおまへん」



客:「えらい視点で物言うなー、あんたは神か?」



青:「はい」



客:「しばくぞ!」



青:「で、はやく感想聞かせてーな」



客:「ふむ、『ゆく菊』において、《ありのまま》っていうのはキーやねん」



青:「ほほー」



客:「『ゆく菊』に出てくる人はみんな、何かを隠しているんや」



青:「ほほー」



客:「その隠している姿がじょじょに露わになってゆく」



青:「ふむふむ」



客:「露わになった姿っていうのは、決してよいと言える姿ではないけど、ま、人間ってこんなもんだよなーって妙に納得してしもうたわ」



青:「ホンマその通りですわー」



客:「菊池の奥さんの富士子なんて、亭主が死んで悲しんでるふりしてるけど、浮気してたんだよな。しかも、菊池を殺そうとしてたんやから、とんでもないありのままの姿やで」



青:「まあ、そうですなー」



客:「そうそう、ポスターみてドキッとしたんやけど、富士子と船越ってできてんのか?」



青:「・・・・」



客:「ま、それは大したことやないから、どうでもええねんけど」





法然院(京都)




青:「おや、いきなりなんですの? これ?」



客:「これ、法然院っていうお寺さんやねんけど、毎年お盆と年末に墓参りに行ってるねん。ここの貫主(かんす)さんがええ人でな、本を出してはるねん。」



青:「ほほー」



客:「梶田真章さんっていう人なんやけど、ええこと言うてはるんで抜き出すな」





ありのまま




ありのままの自分でいい。法然さんはそうおっしゃっています。
しかし、自分のすべてを認め、受け容れることはそう簡単ではないですね。「こうありたい」という自分のすがたを思い描いて努力するわけですが、それでも「なぜこんなことをしてしまったんだろう、言ってしまったんだろう」という、「わたし」の言動に責任を持てない「わたし」も常にいて、その「わたし」は、ふだん自分が望んでいるのと違う方向に「わたし」を持っていく。だから、自分のすべての言動に責任を持てと言われても、困ってしまうところはありませんか。



でも、佛教の、阿弥陀さまの立場からすると、いろんな自分がいて当たりまえなのです。自分の思いどおりにならない自分がいるのだから、どんなふうになっても自分はおかしくない。ですから極端な話、人殺しした人と自分とは、違う種類の人間ではありません。罪を犯した人はたまたまそういう縁が整ってしまっただけで、「わたし」は今のところ殺してはいないけれど、縁が整ったら、誰かを殺すこともあるかもしれない。つまり、阿弥陀さまの前では善人も悪人もない。みな同じ人間で、人間には一種類しかないということなのです。もちろん、何か罪を犯してしまったら、社会的な責任はとらなくてはいけませんが。



一方、別の見方もあります。素晴らしい人間、ふつうの人間、ひどい人間と、あらかじめ種類が決まっているというものです。「わたし」はふつうの人間だけど、あの人はひどい人だと。あの人は素晴らしいけど、「わたし」はふつうなんだと。でも、法然さん親鸞さんはそう見ませんでした。おぎゃあと生まれてから、ずっと悪人もいなければ、ずっと善人もいないはずだと説いたのです。



夏目漱石は『こころ』という小説で、主人公の「先生」に次のように言わせています。
「然し悪い人間という一種の人間が世の中にあると君は思って居るんですか。そんな鋳型に入れたような悪人は世の中にある筈がありませんよ。平生はみんな善人なんです。少なくとも、みんな普通の人間なんです。それが、いざという間際に、急に悪人に変わるんだから恐ろしいのです。」



人はそれぞれの縁によって、こんな人になったりあんな人になったり、日々変わりつづけている。明日に何をしでかすかわからない、あやふやな存在なのです。



ですから、「自分らしさ」とか、「ほんとうの自分」を見つけようと一生懸命になる必要もないのではないですか。もちろん、自分の好きなことややりたいことは考え、追求していけばよいのですが、もしそれが変わってしまったとしても、なんの珍しいこともないし、また見つからなかったとしても、そう焦ることもないのです。あなたがあなたとして生きているだけで、すでに十分な個性なのですから。個性、個性と言い過ぎる昨今の風潮は、少しおかしいように思います。



本当の自分なんて/全部本当の自分だから/いやになるほど/本当の自分だから/嘘のひとつも/つきたくなるよ



法然院の近くに住む詩人、深井ゆうじんさんの言葉をお寺の壁に飾っています。たとえいやなところがたくさんあっても、自分は自分でよいのです。かけがえのないひとりなのですから。



梶田真章『ありのまま』(リトルモア)pp.131-133.






ありのまま―ていねいに暮らす、楽に生きる。

ありのまま―ていねいに暮らす、楽に生きる。


大映映画




青:「ほほー、なんだか見透かされているっていうか、『ゆく菊』で描いた人間模様そのものでんなー」



客:「『ゆく菊』は、痴漢したり、人を殺そうと思ったりする人間を肯定しているのか否定しているのか分からへん。要するに肯定も否定もしてへんのやと思うわ」



青:「たしかにその通りですわ。痴漢や人殺しを罪というようには描かんかった。痴漢は人の性(さが)、病気というように捉えて描いたし、人殺しというのは真章さんがいう縁といいますか、いくつかの条件が重なったら、そういうこともやりかねないというように描きましたわ」



客:「ほほー」



青:「今回の作品は『アナ雪』というよりも大映映画を基調にしておるんですわ」



客:「大映映画っていうのは詳しく知らんけど、なんか独特の雰囲気というか、テイストがあるなー」



青:「そうなんですわ。あのテイストはディズニーにはおまへんやろ。かと言って、あれを日本的なるものとも言えまへんのや。あれはいったい何なんや?って」







笑い



客:「大映映画というかあの時代の映画は基本的にはマジやわな。物語自体はシリアスで、出てくる人物も必死というかマジやな。でも今見たら、笑ってしまうわ。なんでこんなことにマジになっとんねん、アホかって」



青:「そこなんですわ、大映映画のオモロいところは。笑いとシリアスって紙一重なんですわ。なんていうんですかねー、シリアスを突き詰めると笑いが生まれるっていうか...」



客:「わかるわー」



青:「『ゆく菊』もはっきり言うてどうしようもない人間ばっかり。端からみたら、あいつらアホかって思いますわ。でも、あいつらは必死なんですわ。だからオモロいんですわ」



客:「ま、今回は大映映画っていうか、ほとんど吉本新喜劇の閾に達してたけどな 笑」


関西弁




青:「吉本新喜劇というのは言い得て妙ですな。さすがに新喜劇を露骨にやったろとは思いませんでしたけど、関西弁でやるっていうのは決めてましてん。演劇でいう現代口語っていうのをこの数年ずっと考えてましてな、会話といいますか、言葉の触感をもっと掘り下げたいと思うてたんですわ。関西弁って角がとれてまっしゃろ。だから、会話が転がるってことがあるんですわ」



客:「そやな。この感想文もそうや。これ、イントロの部分を会話調にして、関西弁で走り出したら、転がり出したんや。だから、このまま会話調でいったろ思うて、青木はんにもお付き合いいただいとるんや」



青:「まあ、ワシが青木秀樹であるかどうかは怪しいですけどな」



客:「会話っていうのは、話している内容だけやなしに、音でもあるし、肌触りでもあるし、イメージも湧きますわな。それから図と地というか、言葉じゃない部分、間も生まれますわな」



青:「ほほー、そこまで言われたら、はっきり言いますけど、ホンマにそういうことなんですわ。そういうことをやりたくて、そういうことをすべてひっくるめて創り上げたんですわ、『ゆく菊』は」


輪廻




客:「なかなか興味深い話になってきたけど、あと気になるのは『ゆく菊』の世界観やな」



青:「ほう」



客:「幽霊っていうのはいろんな物語にたびたび出てくるから珍しくない。けど、幽霊がゆっくり回るっていう描写はあんまり見たことがないねんけど、青木はんの地元では幽霊っていうのはゆっくり回るもんなんかいな?」



青:「そんなアホな 笑」



客:「じゃ、なんで菊池は回ってたんや?」



青:「ええとこ気づきましたなー」



客:「なんでや?」



青:「お客さん、菊池の最後の言葉を覚えてはりますか?」



客:「はて?」



菊池:「もしもし あ はい 菊池です ええ 何とか無事です 無事ってのはええですなあ 何にも無いってことでしょ 何にも無いってのはええですなあ あ 嫁のことですか まああの女も可哀想な女でね 危なっかしいから もう少し様子をみてやろと思てます それにしてもどんよりとした天気が続きますなあ 雨降るんやったら降る 降らんやったら降らん・・・」



客:「無いがなんたらって、えらい哲学的やなー」



青:「ワシ、幽霊っていうのは神様やと思うてますねん。菊池っていうのはカープの菊池やのうて、神様ですねん。ネ申ってるっていうあれですわ」









客:「ネ申ってるのは菊池やのうて、鈴木誠也やけどな」









青:「はー、そうでしたかー」



客:「そう考えると、菊池っていうのは、あっちに近いな。菊池寛芥川賞を創ったやつ」






菊池寛




芥川龍之介





青:「そうですな。あの人のイメージですわ。文学で言えばとうぜん芥川龍之介のほうが有名で、菊池寛を知ってるっていうのは文学プロパーの人だけですわな。世間一般の人は知りまへん。でも芥川をここまで有名にさせたのは菊池によるところが大きい訳で、こういう目に見えないつながり、世の中の構図を描きたかったっていうのはありますな」



客:「よのなかの動きには不思議なつながりが潜んでるわな」



青:「『ゆく菊』でつながりっていうのは、めちゃくちゃ意識して書いたんですわ」



客:「風が吹けば桶屋が儲かる的な」



青:「クライマックスのところ、菊池が言うてましたやろ」



菊池:「(碧郎を見て)おお君かいな 痴漢してた いや みんなの前で言うことやないか (マチ子を見て)あああの時のお嬢さんやないかいやあ君ら何?あれから付き合うてんの? 僕もあの時はびっくりしたけど、もう全然気にしてないよ、うん あれから色々あってなあ 会社でも色々言われて辞めたんやけど こっちが言うこと全然信用してくれんと噂ばっかり広めよってな、あんな会社辞めてよかったよ、清々したわ 逆に君らに感謝してるくらいでね」



佐分利:「電車に飛び込んだのでは」



菊池:「ああ あれか あれはこけてん 駅のホームでこけてん ホームから落ちてん そしたら 間の悪いことに 電車が来て 慌てて ホームの下に隠れてんけど ちょっと擦り傷してなあ そしたら大げさに飛び込み自殺か とか書かれてさ 事故やちゅうてんのに また駅員が あの時の痴漢に疑われた人や、 言いやがってさ そんなことが広まってさ ただこけてん それだけやねん でも恥ずかしいから まあ新聞に載った記事通りに振る舞おう思てさ そしたら あの呑み屋で この彼がおったから おお あの時の痴漢の彼や 思て ちょっと話しかけてみよと それで声掛けたんやけど 何か 外へ出て ほらあの時の 痴漢に間違われた男や 言おうとしてたんやけど 彼が僕の手を振りほどいたか 何かの拍子に こけてん またこけてん そしたら 頭打って それから意識が無くなってもうてな 気がついて 立ち上がったら ふらふらしてな ああゆう時って意識が戻ったからって急に立ち上がらん方がええで ほんまにふらふらして 川あるやろ 橋があって そこで こけてん またこけてん ざぱあ 川ん中に落ちてさあ 上見上げてたら こいつ(富士子)の顔が浮かんでた 最後にはやっぱりこいつの顔を思い出すんかいなあ そう思たなあ そのままゆらゆらと川に流れていったんやねえ このまま川に流されていくのもええなあ そう思てん」



客:「すべてはつながりというか連鎖やな」



青:「それで運悪く菊池は死ぬんやけど、死んだら終わりやのうて、それはそれでまだ繋がってる思いますねん。幽霊になって、神様になって向こうからこっちを見てはりますねん。こっちの世界とむこうの世界はつながっていて、ぐるぐる回ってますねん」



客:「ほほー」



青:「おおげさやけど、宇宙の星の動きと同じですねん。ゆっくり回ってますねん」



客:「輪廻ってやつやな」



青:「そうなんですわ」


縁起




客:「輪廻かー、たしかに『ゆっくり回る菊池』の世界観はまさにそうやなー、巡り合いやなー」



青:「まさに、巡り合い、人と人とのつながり、ご縁ですわ」



客:「最後にもう一度、梶田真章さんの言葉を紹介させてもうてええか」



青:「はい」




「縁」あればこそ




ご縁がある、ご縁がない。



ふだんの暮らしの中で、よく使っている言葉ですね。人にしろものにしろ、「縁があった/なかった」としか考えられないような関わり合いを、誰しも経験しているのではないでしょうか。この言葉が佛教から来ていることはご存じかもしれませんが、この「縁」、正確には「縁起」こそが、佛教のもっとも大切な教えなのです。



「縁起」とは、すべてのものが関わり合っているありようのことです。人も動物も植物も、すべての存在は原因と条件という「因縁」が整うことによってあり、何ものも他のいのちと関係なく、それだけで存在することはできません。個々のいのちは、お互いに支え合い、あるいは傷つけ合いながらも、他のいのちがあってこそ、初めて「自分」となるのです。



まず第一に、私たちは、ひとりで生まれてくるのではないですね。因縁によって、生まれるべくして生まれてくるので、両親の存在もひとつの縁にすぎませんが、両親がいなければ自分もこの世にはいないわけです。



大人になって社会に出て、自立して生きているつもりでも、まったく他のいのちと関わらないということはあり得ません。いつも通る道に気持ちのいい木があったり、朝晩行き会う犬や猫はいませんか。あるいは、はからずも鉢植えの花を枯らしてしまったことはないですか。さまざまな関わり合いのなかで、個々のいのちはあるのです。



もうひとつ、何かを「見る」ということについて考えてみましょう。わたしたちは目でものを見るわけですが、そもそもそこに、見る対象があるから見えるのですね。目があるだけでは「見る」ことはできない。すべてのものは「現象」なのです。単にその時々のものごととしてあるのであって、変わらずあり続ける絶対的な「実体」などありません。「こと」は「もの」によって起こり、「もの」は「こと」によってつくられます。



ですから、「わたし」を存在させているのも「わたし」ではありません。無数のいのちの重なりが、「わたし」のいのちとして現れているのです。「わたし」の存在を決めていくのは、まわりとの関係でしかありません。「縁起」とは、この世をつかさどるものであり、「わたし」が生きているあいだ、また生まれる前も死んだ後も、変わらずあり続けている世界のありかたである。それを「真理」とも呼ぶのです。



「わたし」という実体はどこにもない。
これが二千数百年前にお釈迦さまが悟られた、佛教という宗教なのです。



他のいのちとの関わり合いの中で、まさに「わたし」は、生かされ、生きているのです。「わたし」の人生を送る中で、「わたし」の意志はほんの一部にすぎません。明日法然院に行こうと思っていても、朝起きたら雨で行きたくなくなった、ということもあるでしょう。「行きたい」という意志を成り立たせる条件が整って初めて、じっさいに「行く」となるわけです。条件が整うことは当たりまえではありません。



こう申し上げると、縁というのは偶然もたらされるものだと思われるかもしれません。しかし、縁は必然なのです。思いがけない出会いや別れも、悲しいできごとさえも。このことは、運命論などとはまったく違います。すべてあらかじめ決まっているのではなく、それぞれの、その時々の関係性において決まっていくものなのですから。



ふつうの人間の頭では、到底理解し得ないところに真理はある。
「理解できないものなど存在しない」と、片づけてしまうのは簡単です。しかし現実には、納得できない、あるいは予想もつかない不思議なことが起こります。どうしてあのタイミングであの人に会えたのか、どうしてあのときとっさにあんな行動がとれたのか。それをつきつめていくと、私たちの知恵の及ばない「何か」がある、と考えたほうがつじつまが合う。その「何か」こそを、縁起というのですね。



すべてを理解する必要などないし、またできるわけもないのです。まずはそこから出発したらどうでしょうか。



梶田真章『ありのまま』(リトルモア)pp.90-93.




あ、あと『ゆく菊』には「良心の呵責」というキーがありますけど、それについてはあえて語らないでおきましょう。観た人々がいろいろと想像力を働かせて考えるでしょうから。





さて、そろそろ感想文もお開きとしましょうか。





この流れでゆくと、最後はSMAPのこの曲ですかね。





解散は残念ですけど....





世界に一つだけの花















過去作品《感想文》



僕たちが好きだった川村紗也




山笑う













阪根タイガース


好評?連載中!こちらもよろしく!!


阪根タイガース日記


好評?連載中!こちらもよろしく!!