平井玄『千のムジカ』刊行記念トーク




トークセッションレポートをアップしました。(11月18日)







トークセッションレポート vol.3]



  平井玄『千のムジカ』青土社)刊行記念
 [ 平井玄×崎山政毅トークセッション ]《ダイジェスト版》


タイトル:音楽の貧困/哲学の貧困


会場:ジュンク堂書店新宿店(8F喫茶コーナー)


日時:2008年11月14日(金)18:40〜20:30




【講師紹介】


平井玄(ひらい・げん)
1952年生まれ。音楽・思想・社会等の領域を横断して独得の視角で論じる。音楽を運動として組織し、山谷やパレスチナに赴く。近年はフリーター運動に関わる。現在、横浜国立大学非常勤講師。著書に『ミッキーマウスのプロレタリア宣言』(太田出版)『引き裂かれた声』(毎日新聞社)『暴力と音』(人文書院)『破壊的音楽』(インパクト出版会)『路上のマテリアリズム』(社会評論社)、他に『音の力』シリーズ(インパクト出版会)の編集・執筆に携わる。




崎山政毅(さきやま・まさき)
1961年生まれ。立命館大学文学部教授。専攻はラテンアメリカ現代史・第三世界思想研究。著書に『サバルタンと歴史』(青土社)『思考のフロンティア 資本』(岩波書店)、共著に『歴史とは何か出来事の言葉、暴力の記憶』(河出書房新社)『ファシズムの想像力』『複数の沖縄ムディアスポラから希望へ』(ともに人文書院)など。訳書にA・ネグリ+M・ハート『ディオニュソスの労働』(共訳、人文書院)など。



千のムジカ―音楽と資本主義の奴隷たちへ

千のムジカ―音楽と資本主義の奴隷たちへ


サバルタンと歴史

サバルタンと歴史







《要注意》
下記のレポート(要約文)は拙者のメモをもとに作成しました。平井先生、崎山先生が実際に語られた言葉通りではありません。また解釈の間違いも多少あるかもしれません。ご了承下さい。
ジュンク堂書店新宿店人文書担当 阪根正行)


○ はじめに


平井: 平井です。よろしくお願いします。この本(『千のムジカ』)は音楽に対する怒りが書かれていて、音楽関係者にあまり評判がよくなかったり、またここに来ている人もそうだと思いますが、みんなどう受けとめてよいか困惑していると思います。今日はそのあたりのことと、ラテンアメリカ現代史、経済の専門家である崎山さんがいらっしゃるので、まあ専門と言ってもそれだけではなくて、今はみなさん様々なことを横断的にやってられますが、とりわけ音楽と資本主義の絡みについて話せればと思います。


『千のムジカ』にはこの10年ほどに渡って書いてきた論考が収められていて、例えばオーネット・コールマンジョン・ゾーンといった人たちのことを書いてますが、この10年で彼らに対する論じ方もかなり変わってきています。というのは力の変化、この1ヶ月ぐらい特にですが、左翼に対する力圧が高まっていたり、経済、社会情勢の変化が甚だしいからです。




○ 奴隷化するための音楽



崎山: こんにちは。崎山です。今日も授業をしてから新幹線でやってきました。職業柄「株式取引高のグラフ」なんかも生徒に見せたりするのですが、そのグラフで興味深いのは、大恐慌の1929年の取引高、上下動は大したことなくて、それが1960年頃からぐぐっと伸びてきて、そして1980年ぐらいから激しく上下しながら伸びていって、そしてここ最近ストンと落ちているということです。ここで言えるのは、株式取引はもうコンピューターの動きであって、人間の感性で分かるというものではないということです。これを強引に音楽に結びつけるならば、「ノイズ」ですよね。


この前、南米ペルーのチチカカ湖、かつて農民の反乱があったような所ですけど、そこに104歳のアヴァンギャルド詩人のおばあさんがいて「来なさい」というから行ってきたのですが、彼女が僕と同じことを言うんですよ。「みんなイヤホンあてて同じような体の動かし方をしている」って。標高3,900m、全力疾走したら高山病になるような場所でも、いま乗ってきた中央線でも京都でも、それから前に行ったメキシコでもそうでした。どこでもみんな同じ。差異がないんですよ。それで思ったのが、平井さんは『千のムジカ』で、オルタナティブ、異なるというのとも違う、なんて言うか「違った耳から違った体へ」というか、そういう体験を探し求めていたのではないでしょうか。変に同じになってしまっている。老若男女、違う職場で働いて違う経験をしているであろうにも拘わらず、イヤホンして同じような動きをしている。言わば「奴隷であることの喜びに浸っている」という感じなのだけど、どうなんだろう?これでいいのでしょうか?



平井: うん。 バラク・オバマが大統領になりましたね。彼はナイジェリア?ケニア?の父とヨーロッパ系の母だから、黒人かどうかは分からない。少なくともアフリカの奴隷という訳ではない。


それでブラックミュージックの話なのだけど、例えばドストエフスキーのような偉大な文学があるけど、我々の世代前後20〜30年ぐらいの人たちは、音楽をそのようなものとして聴いてきた。なかでもブラックミュージックと言えば、奴隷解放の音楽です。それがここ10年、20年は「奴隷化するための音楽」になってきている。我々はそういったブラックミュージックに激しい嫌悪を感じます。


そして、これは日本ではあまり報道されていないのですが、10月1日からアメリ連邦軍が米国内南部に繰り出しています。150年間対外専門だったのが、国内に展開しだした。フロリダからカリフォルニアに至る南部というのはまさにサブプライム問題の当事者である黒人中産階級であって、それを鎮圧する軍隊のトップがオバマ、まあ黒人なのです。 ここで60年代を繰り返してはいけない訳で、真性でないブラック(ミュージック)のあり方、あのプレスリーでさえ極めて黒人に近いところにいたという危険性、それとも違ったあり方を考えています。



崎山: その問題はメキシコの新聞、私がネットで購読しているホルナーダ紙でも報じられていました。アメリカの軍隊と言えばまず「テキサスレインジャー」ですね。インディアンの鎮圧に始まり、対外的にもスペインとの戦いに一番初めに行ったのは、このテキサスレインジャーです。それが内部(南部)へ向かうということです。1989年の中国と同じことをここまではしている。まあ「天安門」までは激しくやらないでしょうけれども。


その時、音楽は軍隊を鼓舞するために使われます。やる方も敵が外にいてくれたいいけど、イヤでしょ。そこでさっきのイヤホンの話ですけど、多重効果、音楽を聴きながら、本を読んだり、歩いたりという何か重ね合わせるというか、そうやってすり込む訳です。主体的ではない効果、イメージで言えばブラウン運動みたいな感じですよね。みんなそんな感じ。これは奴隷の共同性、貧しい共同性です。国境を越えて。


そこで、『千のムジカ』で論じられているオーネット・コールマンなのですが、うまく言えるか分かりませんが、彼はアカデミアンからアカデミアンへではなく、多様性を多様性のまま維持させつつ伝えている。音楽も文化、社会、政治と切り離すことはできない。また今の資本主義というのも昔の資本主義がずっと続いてきてこうなったというのではない。根源的に違う。日々刷新された「経済」というよりも、もう我々の「身体(からだ)」です。それがメキシコもペルーもアルゼンチンもカナダも日本、京都も東京も全部同じ。こういうことが冒頭で平井さんがおっしゃた「音楽への怒り」ということでもある。そうではなく、オーネット・コールマンのような《ズレ》ている人にこそ寛大であるべきです。




オーネット・コールマン/《捕獲》



平井: 崎山さんが話しているとなんだかアジ演説みたいになってしまいますね(笑)。 株式を見ていると「毎日恐慌、一日で回復」という感じです。こんなこと昔はなかった。今は何事も「毎日氾濫、一日で回復」です。


まだ『千のムジカ』を読んでいない人もいると思うので、オーネット・コールマンについて説明しておくと、彼は1960年にニューヨークに出た。彼ははっきり言ってインチキです。素養もない。チャーリー・パーカーなんかと同じで見よう見まねで全部やっていた人で、彼自身それではいけないと思ってちゃんと勉強したんです。ニューヨークフィルの人がやっている私塾のようなところへ理論を学びに行った。そして、今まで体で覚えていたことが全て間違っていたと知って激しく動揺し、トイレで吐く。 これに対して教える側もまたびっくりした訳です。西洋音楽の理論からこれほどまでにはみ出てしまっている人がいると知って。このオーネット・コールマンは、言わば《豊かな多様性》です。一方、崎山さんが言っているのは、ドゥルーズガタリの言葉ですけど《捕獲》です。


iPodなら2,000、3,000、いや5,000曲ぐらい入るから、60,70年代のLPレコードを何百枚も毎日担いで歩いているようなもんです。でも、実際聴いている曲はすごく限られていると思うんです。崎山さんが言うように限られた空間内のブラウン運動です。そうじゃなくて、ブルースにしろ黒人音楽は、アメリカ、プランテーションからはみ出しているんです。それを如何にするかです。



崎山: 《捕獲》されているのは、私たちなのです。近頃なんだか歌を歌わなくなってきたように思うのです。まあカラオケでもいいですよ。ただ歌う側も上手なんだけど、それ以上でも以下でもない。歌っていても歌っている身体(からだ)ではない。明らかに鋳型に嵌められている。みんな共振する身体になってしまっている。音に依存してしまっているのだろうか、様式になってしまっている。


僕はテレビもあまり見ないようにしているのだけど、報道にしろ切り取られた絵柄ではなくて、それ以外のところにこそ本当の奥行きがあります。音楽でも、それを取り巻いている社会の仕組みがある。その仕組みをえぐり出してダメな力を叩きのめすことが大切なんです。耳を開いていれば、もっと広がる可能性があるのに、イヤホンをしてしまって、5,000曲持ち歩いているか知りませんが、それこそ世界びっくり大賞にでも出られそうですが、そういう制限された聴き方ではない聴き方ができないだろうか。




○ 世界自体の底が抜けつつある



平井: 僕の友達のオーディオマニアにはCDの音域に敏感な人がいますよ。本当かどうか知りませんが、CDの裏に十字型にキズをつけるそうです。するとCDで排除されてしまうノイズが聴けると言うのです。デジタル化されると豊かになるのではなく貧しくなる。繊細ではなく鈍感になってきているんです。確かになかには敏感な人たちがいる訳ですが、彼らはそれ以前を知っているからです。マテリアリズムなんかもそうですけど、極めて限られています。


あ、それから新聞を読んでいると、毎日企業の業績の下方修正が報じられていますが、今朝の新聞では、広告会社もガタ落ちだと報じてました。要するにトヨタが広告費をカットしたからなのですが、こういう時にまずカットされるのは、派遣、フリーター、そして広告です。


するとテレビCMが貧しくなります。例えば地方局の番組で流れるチープなCMがありますけど、あれが東京のキー局の番組でも時々流れています。テレビ局も軒並み収入減です。映像電子メディアがこの有様です。つまり批判する力をもう持っていないということです。そのような状況で、かつて粉川哲夫やジジェクがやったような批判、う〜ん、それとも違った批判はあり得るのか。リアルな世界が露呈してきている、鋭い批判を受ける世界自体の底が抜けつつある。「自発的奴隷制度」と言ってしまえるような状態になってしまっている、そういった中で何ができるのだろうか。




○ 身体(からだ)の発見→ 強靱な批判



崎山: 流されるのがダメというのではなくて、さっき言ったような身体(からだ)の発見があれば、なんとかできると思うんです。繊細というか、強靱な批判は可能か。例えばジジェクの場合、誰が敵か分からない。もちろん敵はいるんですけど、自己防衛も必要でその戦略も組み込んだりしているから、何かぐるぐる回り続けているという感じでよくない。粗暴な現実に対して、粗暴な批判ではダメです。


今は、未来を奪って現在の埋め合わせをしています。もうガタガタです。これを立て直そうと思えば、批判は強靱なだけではなく優しさも必要です。必ずしも、分かりやすくなるとは限りませんけれども。


また私自身の体験談で恐縮ですが、夏にメキシコに行った時、ハリケーンが4発連続できやがった。サパティスタの村で、流された家や死体を運んだりしていました。その光景が強烈で、救助する軍隊もいるのだけど、目の前で家が崩れていったり人が死んでいったりする。分かっているけど、どうしようもないのです。ハリケーンですから日本の台風なんかよりもっと凄くてゴーゴーなってる。なのに「助けてー!」「ここよー!」という声はちゃんと聞こえるんです。それで思ったのは、身体(からだ)というのは個人的なものですけど、相手の声をちゃんと聞けるのだと。こういう身体を繋げていけば、現状をすり抜けられるのではないか、あるいは壁に穴をあけられるのではないか。同じ人々で集まって同じ経験をするのではなくて、《ズレ》です。


それから、院生に安部公房原作の勅使河原宏の映画の研究をしている子がいて、その作品にモンタージュが組み込まれていたんです。それで、その子が学会で発表したら、「そのモンタージュはメインのストーリーとどう関係しているのか」と質問されたそうです。この質問はダメだと思いました。《ズレ》が分かってない。




○ 《スーダラ》がイデオロギーを司る



平井: 冒頭で音楽に対する怒りと言いましたけど、私は音楽に対する愛情も深いのです。この本(『千のムジカ』)では、ジョン・ゾーンオーネット・コールマン以外にもキップ・ハンラハンやマルコム・マクラレンも論じています。いろんな形の抵抗があるんです。


僕は80,90年前半、ジョン・ゾーンによってジャズ、音楽への興味を失わずにいられました。彼は異常な練習によるプレイをみせたり、50年代のバップや、スウィングをバッチリやったりします。その一方でノイズもやるんです。彼はジャズを理知的に聴くことができる人で、ポスト構造主義と言われるような理論にも精通していますし、彼が音楽でやっていることはまさにデリダドゥルーズです。


それがある時、突然面白くなくなったのです。その理由は9.11であり、シアトルであり、ジェノバであった訳ですが、ニューヨーク・ユダヤ的抵抗がもう無効化したということなのです。それは理屈ではなく音としてダメになったのです。


今ではニューヨーク以外でも、日本なら大友良英菊地成孔、あと坂本龍一なんかもそうですが、ゾーンのように理知的であり、また洒落や皮肉でうまく曲をやったりもします。大友君なんかは、ジャズであってもメソッドに分析できてしまうような人です。それに、ジャズは今では事実上ヨーロッパがメインですし、ヨーロッパのミュージシャンにもうまい人が沢山います。


そういった現状に反して、オーネット・コールマン、あとアルバート・アイラーなんかもそうですが、彼らは分解できないのです。構造化できない。彼らはアイコンではなく、活動であり生き方そのものです。そこで私が考えたのが「《スーダラ》がイデオロギーを司る」ということなのです。


オーネット・コールマンは下手くそです。素人です。自分の曲も毎回同じにできない。イントロでも間延びしたりする。そういう人です。セックスピストルズジョン・ライドンジョニー・ロットン)なんかもそうで、ダメなおじさんです。東京にきたら相変わらず下手です。でも彼らはニューヨークとか歓迎してくれるような所は回避して、わざといちばんやばい、いちばん歓迎されないような南部にライブに行ったんです。彼らは様々な抵抗のあり方を示しているのです。


これから我々は日本で何ができるのか。私は《スーダラ》と言いました。崎山さんで言えば《身体の別の鍛え方》ということでしょうか。まぬけで、ルーズで、メソッドにも、時間にもなってない。これは最近の松本哉君なんかの活動に近い。彼は捕まるか捕まらないかのギリギリで抵抗します。彼は「いま、東京で何ができるか」を問うています。


ブラックミュージックを聴くにしても、分かりやすい表層の部分ではなく、抵抗のスタイルを見なければいけない。あと沖縄の音楽(「ハイサイおじさん」等)のあのゆったりとした時間の上でなにかやるということ。あのゆったりとした時間には何かがあると思うんです。



崎山: みんな、まぬけでスーダラになってしまうと困るのですが(笑)。それで自分のことで言えば、沖縄カラテの道場にいま通っていて、初めはとにかく疲れて体が痛かったんですよ。でもだんだん慣れてくるとどこに力が入っているのか分かるようになる。体が軽くなるんです。それを1人ではなく、みんなのなかで、緊張感のなかでやる。アクティブにアグレッシブに《スーダラ》をやる。松本君の身体の使い方というのは、こういうことじゃないかと思う。



平井: 最後になりますが、オバマが大統領になりアメリカのアフリカ系の黒人が試練だろうと思います。《スーダラ》で何とか食べていく。冷たいばかりではダメです。かばいつつかばわれつつやっていく。こういうことの積み重ねなんです。山谷も、ここ新宿も経験して見てきましたが、この「二重化した眼」で私もどうにかやっていければと思います。



崎山: あと1つだけ補足しておきます。「固定してしまおうとするのではない音楽」について。移動の音楽と言うのか、国家や資本とは一線を画したものとして、移動のプロセスから生まれてくる音楽というのがあるのではないでしょうか。平井さんは『千のムジカ』でそういったことも述べているように思います。




○ 質疑応答



質問A: 音楽をどこで聴けば豊かになれるでしょうか? オーネット・コールマンなんかはツタヤにあるので借りてきて聴きましたが、それでもお金がかかってしまいます。


平井: お金をかけないで楽曲を入手する方法はあなたたちの方がよく知っているんじゃない? お金がかかるというのはよく言われます。こうやって音楽を何十年も聴いていると家に帰れば、相当な数のディスクがあったりする訳だし、ここでトークショーするにしても入場料1,000円かかる。「100円のところでやれ」、「タダでやれ」とよく言われます。その問題は確かにありますね。


崎山: 体を楽器にして好きなミュージシャンの音を発してみたらいい。1人でもいいけど、仲間をつくってやってみたらいい。みんなで「今度はこれに挑戦しようよ」とか。


平井: 自分でやってみるのは良いですよ。商品音楽はダメというか、情報誌で紹介されているような曲を買うのはよくない。これは作る側も同じ気持ちで、大友良英君なんかは聴かれ方に不信になっている。ウケたくないと言ってますよ。





質問B: 音楽を1人で聴くようになってきた反面、インターネットの「マイスペース」なんかで自分の作った曲を発信できるようになった。発信する欲求というのはむしろ高まっているのではないでしょうか。


平井:インターネットをツールとして、みんな色々やってますね。坂本龍一も曲をネットでオープンにして色々な人に手を加えさせて全然違う曲にしてしまうなんてことをやってます。ただ、ここでも問題になるのが《捕獲》ということです。ネットで自分の曲が広がるかどうかは口コミ次第でしょ。この口コミという手法は昔からやられていて、インディーズからメジャーに仕立て上げる時にレコード会社が「口コミ」を戦術としてよく使ってました。そこからどうはみ出すかです。


この前デモで何人か捕まりましたが、その時警官が、なかばあきらめ気味に言ってましたよ。「おまえら、どうせこの映像をYou Tubeにアップするんだろ」って。警官というのは「捕獲する側」というよりもっとお堅い存在ですが、どんどん捕獲しづらくなってきているのは事実です。やはり、どうはみ出すかです。オーネット・コールマンアフリカ系アメリカ人、あるダメなおやじ、天才的にへたくそ!はみ出ちゃう人!!


崎山: 1人でやるのがダメと言っている訳ではなくて、どこまで届かせるかです。それで、シカゴ大学の哲学科の人が、ネットで「これはすごくいい/これは全然ダメ」という批評をやったらすごく広まって売り上げにまで影響するようになった。でもこうなると発信者は、こう言えば売り上げが伸びるとか考えてしまう訳で、言わばプチファシストみたいでしょ。これはもう捕獲されている訳です。「ポップス=奴隷化する音楽」というのと同じです。





質問C: この前、クラプトンを聴いたらいいなって思ったのですが、これは本能か?それとも洗脳なのか?


平井: 奴隷であることから逃れるのではなく、自分がどのような奴隷かを知ること。資本主義からは逃れられないということです。ある程度自分を信じるしかない。そこから出発してどこまで行けるか。果てはオーネット・コールマンから対極のジョン・ゾーンまでいますから。自分がいいと思えばとりあえずそれでいい。


崎山: 僕の家の近くに小学校があって、小学生が下校時に集団で「となりのトトロ」をリコーダーで吹いてるの。『さんぽ』ってやつ。これは本当に耐えられないのだけど、子どもたちはなりきってるよね。純粋だよね。それを僕らは逆にマネしてみたらいいかもしれない。恥じらいを捨てて。スーダラでまぬけに。





質問D: 「一揆と音楽」について興味があるのですが、サウンドデモ素人の乱に政治的可能性、また音楽的可能性はあるのか。サウンドデモを聴いてみるとあれはポピュラーミュージックですよね。



平井: サウンドデモで怒るのは当たり前です。日頃企業で働いてチューニングされている。そのチューニングでないとKYとか言われる訳です。そしてデモの時、そのチューニングをはずすために音楽が必要なのです。だから一揆と音楽は密接に絡んでます。ただ、資本主義・労働力・財産という中で、音楽も財産になってしまっている。やはり別のチューニングをつくる必要があります。


崎山: 一揆と音楽の関連は、歴史上どこでも見られます。どれも行進曲ばかりで、サンディニスタもスターリニストもファシストも各々歌があるけど、みんな同じなの。例えばサンディニスタには「サンディニスタ讃歌」というのがあって、これはバラードっぽい、言わば攻撃的バラードです。キューバカストロの演説なんかも天才的にこういうふうになっているのだけど、ま、軍歌です。 ただ、「こういう音楽は全て軍歌だ」と言ってしまうことには抵抗がありますがね。



※ photo by montrez moi les photos






《参照活動》



 地下大学



【参考文献】



 平井玄「大学は死んだ。地下大学が始まる。」


現代思想2008年9月号 特集=大学の困難

現代思想2008年9月号 特集=大学の困難

  現代思想2008年9月号《特集:大学の困難》所収


 気流舎



 素人の乱