東京デスロック『リハビリテーション』




   



昨日、連投ツイートした東京デスロック『リハビリテーション』の感想に肉付けして、まとめました。お楽しみください☆





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  SHALL WE DANCE?




演劇だったのか?トークイベントだったのか?リハビリだったのか?もはや何だったのか知る由もありませんが、劇中に「SHALL WE DANCE?」と問いかけられるシーンがありまして、それが…..





というか、のっけから何だかおかしくて…..





会場に入ったら、椅子が散在していて、いちおう客席ってことだろうとおもったので僕も座ったのですが、どこが舞台なのかわからない。 で、振り向くと後ろの席に俳優の夏目慎也さんが座っていて…..





「舞台/客席」という形式が崩されていたんですね。





それで以前、演劇についてインタビューに答えたことがありましてね、『未来回路4.0』に収録されているんですが、そのなかで東京デスロックの演出家・多田淳之介さんについて語っていましてね、本当はダメなんですがね、議論が盛り上がることを期待して特別にブログに、加筆修正した上で転載します。


   




   演劇と形式




   阪根さんは演劇もよく観られるということで演劇についてもお伺いしたいと思うのですが、演劇の演劇性を拡張する試みや問いに対してどのようにお考えですか?


阪根 僕は演劇を観始めたのは2008年くらいからです。最初は演劇に対して否定的でした。野球監督の野村克也さんと俳優の仲代達矢さんの対談だったと思うけど、仲代さんが、「プロ野球は下手な人がいないでしょ、ずっとプレイを続けてきてその中で上手い人がプロにスカウトされる。でも、演劇の場合は、極端な話、昨日まで街中を歩いていたちょっと可愛い女の子が次の日に舞台に立っているということがありえる」と。この話が僕の演劇界のイメージになっていて、「結局、演技力ではなくて顔なんでしょ」とずっと思っていました。



そのイメージが変わったのは、チェルフィッチュ岡田利規さんが手掛けた『ゴーストユース』を観てからです。この作品は学生が演じていたのだけどすごく上手くて、しかも僕が思っていたようなチャランポランな女の子はいなかった。後から聞いたら、「まだ学生だから演技の能力は全然足りない」って。でも僕が考えていたよりも全然上手かった。「これだけできるのか!だったらプロはどんなもんだ?」ということで小劇場に通い始めました。はじめは戯曲がどうこうよりも俳優のレベルの高さに心底惚れて演劇を観るようになりました。



演劇性の拡張についてですが、美術や建築ではプログラムとか常識をひっくり返そうというのは、実作としては難しいけど、アイデアのレベルや学生の課題ならバンバンやってます。それそこ劇場を設計しなさいと言われたら、舞台があって客席があってという形式を簡単に覆す。



例えば街中で二人の人物がいきなり喧嘩を始めたら、そこが舞台になる、そこが劇場になるという発想で、プログラムをひっくり返しちゃえみたいなことは建築の人もよくやります。美術でいえば、例えば、ロバート・スミッソンのように大地に飛び出して作品をつくったり、美術館というホワイトキューブを解体するとかよくやってます。




   ポップアートなども既存の形式だと作品と捉えられないものを作品にしていく操作ですよね。



阪根 そういうことを美術は極端にやっちゃった。それに比べると演劇の人って意外とおとなしいっていうか大人ですね(笑)。学生はどうか知りませんが、実際プロの公演となると、「演じる側と観る側」というフレームを変にいじる人はあまりいない。ただ、最近になって高山明さんのportBのような作品をつくる人がいることを知ったり、その他にも、モチベーションが違うかもしれないけど、快快のようにいわゆる形式に捉われないつくり方を実践している人もちらほら散見されます。




   それぞれの演劇性を回復させる方法として、近しい戦略を結果的にとっている、と。


阪根 形式を崩していこうとするのはいいけど、心配なのはグダグダになっちゃうことです。やはり俳優はなんだかんだいって上手いっていうのがあって、それは捨ててはいけないと思います。



そんな中で僕は2つほど可能性を感じていることがあります。一つは、快快や京都の杉原邦生君のようにナチュラリズムっていうか、自分の欲望に忠実にやる人たち。



例えば、つかこうへいさんのような戯曲を快快の篠田さんに書きなさいと言っても絶対書かないですよね。でもそれでいい。彼女は彼女なりの力があるんだからそれで勝負すればいい。それをストレートに引き出せばいい。それで表現したものがああいう形になってると。それなら形式を逸脱していたとしても行き詰ることはない。出来たものが「何だこれ!?」っていうものになっていても、観る側としては幸せだと思う。



もう一つは、劇団「サンプル」の松井周さんや東京デスロックの多田淳之介さん。多田さんに関していえば、かなり無茶をやる人だけど、高山さんみたいに劇場を出てとかそこまではしない。ある程度の形式性は受け入れるけど、それを外すセンスがすごくいい。



演劇性ということで面白かったのは、CASTAYAという偽名の作家の公演を打って、俳優も誰だか分からない人(※1)を連れてきて、事前に全く何をやるのか分からないような状況で作品を上演したことです。



どういう作品かと言うと、ネタバレになりますが、俳優さんが出てきて、40分間、ただ立ったまま無言のままで終わってしまうというものです。僕はそれを本当に前情報なしで観ました。



3,4分無言でいるというなら、これはジョン・ケージだなというくらいですみます。ところが4分、5分経ってもずっとそのまま。いったいいつまで続くのか? そうなった段階で、俳優は何もしていないけどこちらの中で葛藤が始まって、「これはもう俳優を観なくてもいいんじゃないか」とか、いや根性比べじゃないけれど「じっと観続けるてやろうか」とか、「もう寝てやろうか」みたいに、いろんな思いが交錯するようになった。実際いつ終わるか分からなかったし、40分もやったら怒り出す人とか出てくる。「どうせサクラだろ」って思っていたら、本気で怒ってた(汗)。



逆に、涙が出るくらい感動もしましたけどね。だって40分間ずっと黙って立ってるんですよ。「こいつすげえー!」って、女優魂を感じて心が震えました。終演したときには「ああ、よかった。もうこれ以上この子をイジメないで!」ってベタな感情移入もしていました(笑)。



要するに俳優は何もしていないけど、観る側が自分で、様々なドラマを作っていくようなことが実際に起こった。その時にこれは、演劇性というか、現代美術でマイケル・フリードとかがよく言うシアトリカルの問題のブレークスルーになっていると思いました。



シアトリカルといえば、唐十郎さんがやるように、明らかにお客さんに向かってバァーと唾を吐きながらしゃべるっていうようなパフォーマンス。これはこれでいいと思います。ただこれはお客さんとの関係が前提になっている。それに対して多田さんがやった『CASTAYA』では、俳優にとってお客さんのことなんて全然関係ない。ただ立っているだけ。フリードで言えば、アブソープション(没入)という状態だと思うけど、これフリードが評価しているシャルダンの『カードのお城』なんかよりもイケてるじゃん!って思いました。



   
     シャルダン『カードのお城』



『カードのお城』は視覚のトリックというか謎解きになっていて、鑑賞者をあからさまに誘っている。対して多田さんの場合は作品自体はあくまでも何もしていない。にもかかわらず、観客の中で勝手に色々と生起してくる。これはシャルダン以上に演劇性を打破したと言える事例だと思います。





   ある意味で瞑想みたいになってますね。



阪根 物語を単に消費するのではなくて自ら引き出す。その時によって物語の立ち上がり方が違う。岡田利規さんの作品を観ていても同じような状況に直面することがありますが、その時に観ながら何か俳優の動きにつられてこっちも体が動いていったり、波長を見つけてしまうというか、何かが起こる。



あと、松井周さんも高山さんみたいに劇場を飛び出せというようなことはないけど、劇場で作品を演じることがどういうことかを意識されています。松井さんは舞台美術をすごく意識していて、舞台美術家の杉山至さんやドラマトゥルギーの野村政之さんと議論しながら作品をつくってゆく。野村さんのポジションはすごく面白くて、演出家でもない劇作家でもない、そういうなにかよく分からない人と作品をつくるという(笑)。だから作品が深くて面白いものになっているのだと思います。



※1 カン・チョンイム・・・韓国のすごく優秀な女優。




今回の『リハビリテーション』もまさにこの問題をテーマにしている。「見る側/見られる側」の境界を取っ払ってしまおうと。



ただ、これはけっこう根深い問題で、単に形式(フォーム)の問題ではない。「見る側/見られる側」、「客席/舞台」っていうのは制度(インスティテューション)になっていて、別に悪いってことではなくて、制度ともなれば、社会的に機能してしまっているから、これを解体するっていうのは、解体すべきかどうかという問題も含めて、けっこう厄介だ。



それで、「見る側/見られる側」、「客席/舞台」、「観客/俳優」という制度が解体されるか否かのせめぎ合いが、劇中で「SHALL WE DANCE?」と観客に問うたシーンに集約されていた。



観客が、俳優が東京音頭を踊っている姿を見ているのではなく、俳優と区別なく一緒に踊っちゃうか否か? さぁ、どっち??? けっきょく観客は誰も踊らなかったのだけど、目に見えない駆け引きがあって、なんか結界を破るか否かくらいの緊張感があったのだ。以下、感想。





  《感想》



SHALL WE DANCE?



やっぱりあそこはポイントだったよなー 



なんで踊らなかったんだろう?




《その1》

SHALL WE DANCE?の意味が分からなかったから。



外国人は分かっていたようだが。




《その2》

日本人特有の恥ずかしさから。






《その3》

SHALL WE DANCE?にいたるまでがながすぎて体がぐったりしていたから。




《その4》

長岡甚句はいいなーって思ったけど






《その5》

東京音頭は聴いたことはあるけど、踊ったことないし






《その6》

日本人なら盆踊りの血が流れているはず! が実はドラえもん音頭を踊った記憶くらいしかない。それもずっとずっと昔の話★




《その7》

東京音頭じゃなくて、ドラえもん音頭なら踊っていたかも☆






《その8》

SHALL WE DANCE?



踊らせようと思えばいくらでもできたのだろう。アップテンポの音楽をガンガンにして気分を高揚させれば行けるだろう。






《その9》

でも演出家の多田淳之介さんは音楽による高揚感を煽っているようでいて、実はいつも寸止めしている★




《その10》



《完》

SHALL WE DANCE?






   《関連記事》





《石橋志保さん(出演者)のツイート》

それにしても東京の真ん中、竹橋で長岡甚句を踊るのは変な気分でした。方言を話すのも。東京デスロックの皆さん、美術館の方々、ありがとうございました。私の母校の運動会(今年の)の動画を貼ってみます。こんな感じ。



   


   東京ワッショイー遠藤賢司




   




東京デスロック『リハビリテーション』感想まとめ






   14の夕べ@東近美








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