《音楽劇》ファンファーレ




   


   音楽劇


   ファンファーレ



脚本・演出: 柴幸男(ままごと)


音楽・演出: 三浦康嗣(□□□)


振付・演出: 白神ももこ(モモンガ・コンプレックス)




出演: 坂本美雨  今井尋也  今村洋一  初夏


    大柿友哉  北川結  重岡佐都子  清水久美子


    名児耶ゆり  西尾大介  bable  柳瀬大輔




演奏: 権藤知彦  田中佑司  千葉広樹  村田シゲ





《東京公演》
2012年9月28日〜10月14日@シアタートラム


《三重公演》
2012年10月20日、21日@三重県文化会館小ホール


《高知公演》
2012年10月26日、27日@高知県立美術館ホール


《水戸公演》
2012年11月3日、4日@水戸芸術館ACM劇場



   


《感想》ポリフォニー・エクソフォニー・ファンファーレ




※ 観劇予定の方は、観劇後にお読みください。観劇前は説明不要。
※ とにかく楽しくて楽しくてしかたない作品なので、頭のなかを空っぽにして、あなたじしんの感性で受けとめてください☆



   ↓↓↓↓↓


   音楽劇とは?



《音楽劇》は、いわゆる演劇ではなく、またミュージカルでもない、まだジャンルとして確立していない未知の領域。なかなか鑑賞するチャンスがないのだが、僕は今回が2回目の音楽劇だった。前回観たのはこれ。


   トリツカレ男


『トリツカレ男』は、原作が作家のいしいしんじさん、脚本が倉持裕さん、演出が土田英生さんといった経験豊富な劇作陣と総じてレベルの高い俳優陣に原田郁子さんという魅力的な歌い手が加わることで、素晴らしい作品に仕上がっていた。ただ、「音楽劇としてどうか?」と問われれば、音楽劇は難しいというのが率直な感想だった。








   『ファンファーレ』について



さて、今回の『ファンファーレ』はどうか?


まずストーリーは、メルヘンチックというか、ファンタジーというか、生まれつき「ファ」と「レ」しか歌えないファーレという少女が、旅に出て、やがて結婚するという物語。成長物語、青春物語という文学の定型をとっており、ストーリーとしては冒険をしていない。


ただ、ここで1点だけ指摘すると、音楽というテーマをかなり分析的に捉えている。音をド・レ・ミ・ファ・ソ・ラ・シに細かく分ける。それを今度は「ファ・レ(ファーレ)」「ソ・ラ(空)」「ミ・ソ(味噌)」「シ・ソ(紫蘇)」というように組み合わせたり、並べたりしながら、物語を立ち上げてゆく。


これは脚本・演出を担当した柴幸男さんの物の見方、文学観の現れだと思う。彼は歴史の文脈や、文章の流暢さにほとんど頼らない、ラディカルなもの派というか、物質ありきの人。物性や物と物との連なりで世界を捉えて、物語を立ち上げてゆく。彼の戯曲は単語が羅列されていて流暢さはないのだけど、言葉と言葉のあいだにリズムが発生し、動き出す。彼は独特な世界観の持ち主で、説明したり、理解するのが難しい、要するに変人(笑)。



次に音楽劇としての『ファンファーレ』について。音楽劇が目指しているのは、演劇と音楽、そしてダンスが「1+1+1=3ではなく、4になり、5になり、10に化ける」というものであろう。


今回の『ファンファーレ』では、『トリツカレ男』で感じた演劇パートと音楽パートの縦割り感はほとんどなかった。『トリツカレ男』のヒロイン・原田郁子さんが、『ファンファーレ』では坂本美雨さんに相当すると思うが、坂本さんは1人の俳優として作品のなかに溶け込んでいた。細かいことを言えば、名児耶ゆりさんや柳瀬大輔さんといった俳優の演技に比べたら劣るが、それは大した問題ではない。


『ファンファーレ』は音楽劇として、演劇と音楽とダンスがうまく融合しており、1+1+1=3ではなく、4にも、5にも、10にもなっていた。








   『ファンファーレ』のテーマ



ただ今回の『ファンファーレ』にはまた違ったテーマが感じられた。



世界はバラバラ、みんなちがう、でも、それでいいんだよ



というメッセージを投げかける。これは『ファンファーレ』という作品の主題でもあり、《音楽劇》としての主題でもある。


世界がバラバラというのは否定的な意味ではなく、多元論的世界観に根ざしている。特に音楽をやっている人たちは、世界が多様であるという認識が発達しているように思う。音楽には、いわゆる西洋音楽(クラシック)があり、現代音楽があり、ジャズがあり、ポピュラー音楽があり,etc. ほんとうに様々なジャンルの音楽があるので、特に意識しなくても自然に耳にして、多様性を受け入れているのであろう。


そう考えれば、ダンスも同じだ。振付を担当した白神ももこさんや木佐貫邦子さんに師事した北川結さんはコンテンポラリーダンスの人って感じだが、bableさんは、ブレイクダンス、ヒップホップダンスを得意としているようにみえた。


そう考えれば、演劇もそうだ。みんなバラバラだ。








   『ファンファーレ』のキャスト



では、改めて出演者のラインナップをチェックしてみよう。


名児耶ゆり: ボーイッシュで、笑顔がチャーミング。おてんば娘がはまり役。



初夏: キリッとした美人顔。ドラムもできる。



坂本美雨 歌姫。ジャンルはポピュラーミュージック? 声量では声楽をやってる人に負けるけど、声に独特の艶がある。



重岡佐都子: 声がすごくよく通る。愛嬌のあるキャラ。



大柿友哉: 芝居に安定感がある。飄々とした感じ。実はホルンがうまい。



Bable: 背が高くボディバランスがよい。魅せるダンスができる。アウトローな雰囲気を醸し出しつつ、実は努力家って感じ。



北川結: ダンサー。体がよく動く。芝居も歌もできる。



今井尋也 鼓打ち。親分肌だが、コミカルなキャラ。



清水久美子: 某有名テーマパークでショーアクターをしているらしい。かわいらしくて、アイドルっぽい。



西尾大介 スナフキン。声量はないけれども、あまい声で聴かせる。たくさん人がいると埋もれるが、ソロで歌うシーンで映える。



柳瀬大輔: さすが劇団四季に15年在籍していただけある。声量と芝居の安定感、存在感は抜群。軸となる人物。ラグビーで言えばナンバー8。



今村洋一: 芝居は安心してみていられる。表情をつくるのがうまく、感情表現がなめらか。



権藤知彦 管楽器奏者。インテリっぽい。



田中佑司 パーカッショニスト。キャラ立ちしているので奏者としてだけではもったいない。



千葉広樹: コントラバス、バイオリン奏者。表情がやわらかい。口数は少なそう。



村田シゲ: エレキギター、ベーシスト。いまふう。


みんなバラバラ!!


演劇と音楽とダンスの幸せな出会いというか、演劇と音楽とダンスという3つのジャンルという以上にバラバラだ。








   ポリフォニー



このバラバラ感は決して否定的なものではない。肯定的に捉えて《ポリフォニー》としばしば評される。もともと音楽の用語かもしれないが、例えば大江健三郎はミハエル・バフチンの『ドストエフスキー論』を引き合いにだして、こう語っている。



ドストエフスキーの小説のなかでは、作者の声、語り手の声、主人公の声にとどまらず、じつに多様な人物たちの声が立ちあらわれ、関係しあい、響きあって、単一の声では決して達成できぬ、多声的、ポリフォニックな表現をなしとげている。そのようにバフチンはいって、それをドストエフスキーの文学の特質    言葉のレヴェルから、文章のかたまりのレヴェルへと、様ざまなレヴェルであらわれる書き方の特質    とみなすのである。すでにのべたことだが、とくに私小説を源流とする、単一な声による表現を中心に置いてきた日本文学において、新しい書き手たちは、この課題をよく考えてみなければならないだろう。


大江健三郎『新しい文学のために』岩波新書 p.181.より)






   ソフト・スターリニズム



この《ポリフォニー》は、一元論的世界観への批判にもなるし、ある種の一方的な支配関係に対する批判にもなる。ただポリフォニー多元主義が陥りやすい問題点を一応確認しておく。《ソフト・スターリニズム》について。



多元主義にはよりやっかいな問題がある。現在のような実証科学の時代に、みずからの立場の絶対性を主張し、他の言葉の存在を認めないような時代錯誤的な暴論は、新興宗教を除けばごくわずかである。コントは実証科学の特質を「相対的」だと規定してもいる。にもかかわらず現実に成立する立場は次のようなものになる。「原則的に個々の立場の普遍性は認めず、さまざまな立場の共存を主張するものの、にもかかわらず現実的には特定の立場が疑似普遍的であり、個々人は別個の主張がありうることを認めた上で、その特定の立場に従属すべきだ」という主張である。このような主張を何と形容したらよいかわからないのだが、とりあえず「ソフト・スターリニズム」と呼ぶことにしよう。ソフト・スターリニズムは、論理形式上個々の立場の相対性を認め、多元性を認める。それと同時にみずからの立場の現実の優越性をテコに、個々人のその立場への従属を両立させる。可能性レベルでの多元性と現実での多元性の否定とを両立させるのである。多元主義からソフト・スターリニズムを批判しなければならない理由は、形式的には見当たらない。しかもさらに悪いことにはソフト・スターリニズムはみずからの公式上の立場を「多元主義」だと自称することができる。


(中略)多元主義は、複数の立場を鳥瞰的に見おろす観察者の立場でしかない。そのため多元主義は謙譲の美徳を身にまといながら、多くの立場を箱庭鳥瞰的に見おろす特権的な視点をとってもいる。そのため「私は多元主義者である」という告白めいた言明は、身構えた寛容しか示すことができない。観察者の位置から離れない限り、多元主義はみずからの意図を実現できないように思える。


河本英夫オートポイエーシス』(青土社)pp.57-59.より)

ここで河本氏は、多元主義の陥る問題として、観察者の特権的な地位が確立している場合、支配   被支配の関係が確立している場合は、一見、多元主義に見えても、それは一元主義でしかないことを指摘している。


では、『ファンファーレ』についてこの問題をチェックしよう。今回もし企画者が都合よく人選をして、キャストを決めたのであれば、ソフト・スターリニズム的と言え、多元主義とは言えないであろう。


ただ、事前にある程度の意向は働いていたと思われるが、選ぶ側も選ばれる側も、彼、彼女らが何ができるのか、できないのか、やってみなければ分からなかったであろうし、実際にやっていくなかで「私はこれができる」、「彼にはあれをやってもらおう」という判断が随所でなされたと想像される。


また観察者の位置、支配   被支配の関係については、演出側と俳優(演奏)側の区別は確かにあった。ただ、それが一方的な支配関係かと言われれば、そうではない。演出側の柴さんや白神さんも、「舞台で演じろ!」と言われれば、演じられるだろうし(もちろん俳優の方がうまいと思うが)、三浦康嗣さんは実際にピアノを弾きに舞台にひょこひょこ登っていた。


この関係は、支配   被支配という関係ではなく、演出が得意な人が演出をして、演じるのが得意な人が俳優をやるというくらいのゆるい関係だと思われる。また「演出家/俳優」の垣根を取っ払えばいいのかと言えばNO. 原理的に考えれば、それが正解かもしれないが、それはそれで違うように思う。


『ファンファーレ』にみられる《ポリフォニー》について、《ソフト・スターリニズム》的兆候は、ほとんど確認されず問題にならない。








   エクソフォニー



次に、『ファンファーレ』が、《ポリフォニー》から一歩進めて、《エクソフォニー》という次元に突入にしているか否かについて考えてみる。「エクソフォニー」とは広い意味で母語の外に出た状態一般を指す。文学において、日本人でありながら、ドイツ語でも創作を行う作家の多和田葉子さん等が、この問題を探究し、成果を上げている。彼女の著書から抜粋して引用する。



これまでも「移民文学」とか「クレオール文学」というような言葉はよく聞いたが、「エクソフォニー」はもっと広い意味で、母語の外に出た状態一般を指す。外国語で書くのは移民だけとは限らないし、彼らの言葉がクレオール語であるとは限らない。世界はもっと複雑になっている。


(中略)ギリシャ出身のエレニ・トロッシーとわたしはドイツへの移住者なので、まあ広い意味で「移民」とも言えるかもしれないが、マヤ・ハデラップオーストリアの国内で生まれ育ったスロベニア人であり、移民ではない。それでも幼年時代はほとんどスロベニア語だけを聞いて過ごした。もちろん現在のオーストリアではそのようなことはありえないが、四十年前にはまだ国内に閉じられたマイノリティの言語空間があったということになる。両親はドイツ語を話せたが、いつもスロベニア語を話す祖母といっしょに時間を過ごした彼女は「母語」が「祖母語」だったと言う。


(中略)旧フランス植民地であるセネガルではつい最近まで、本を書くと言えば、フランス語で書くのが普通だった。だから、セネガルの作家は、自分が生まれ育った土地で暮らし続けながら外国語で書くことになる。口承文学ならもちろん土地の言葉だが、書かれた文学も重要視されるようになってくると、初めはフランス語で書くしかなかった。しかし、セネガルの作家の書くフランス語がクレオールだというわけではないし、ましてピジンではない。わたしがセネガルの作家のフランス語の特徴について質問しようとしたら、ベルリンから来た若い研究者ディルク・ナグシェフスキーが、「その質問は嫌われる。ほとんどの作家は「模範的」なフランス語を書いていて、「いかにも西アフリカらしいフランス語だ」と言って誉められることを極度に嫌う」と教えてくれた。そういうものか、とわたしは驚いた。おそらく、少しでも古典的模範とは違った言葉はすべて「奴隷」の言葉、あるいは現代で言えば「労働者」の言葉だと信じている人が多いので、誤解を避けるにはまず「これは模範的フランス語だ」と強調するという手続きが必要なのだろう。しかし、彼らに教養があり、しかも複数文化の中で生きているからこそ、フランスにはないフランス語が生まれて来るに違いない、とわたしならすぐに考えるのだが、それは、ピジンでもクレオールでもなく、アーチスト個人の作品としての突然変異言語だ。


(中略)愉快なのは、英語で小説を書くセネガル人作家まで現れたことだ。ゴルギ・ディエンという作家の書いた『暗闇から跳び出す』という本についての発表があった。英語は国際語だと思っている人が日本にはいるかもしれないが、セネガルでは英語など単なるヨーロッパ語の一つに過ぎず、国際語はフランス語である。(中略)とにかく、セネガル人には英語で小説を書く理由は全くない。しかし、歴史によってフランス語で書くことを強制されていた過去に抗議する時に、自分の母語に帰還するのではなく、個人の選択の自由を最大限に利用して、全然別の言語を選ぶという態度に、清々しいものを感じもした。ルーツを求めるのではなく、より遠い異界に飛び立つ独立運動ということならば、ちょっと面白い。


(中略)エクソフォニーという言葉は新鮮で、シンフォニーの一種のように思えるので気に入った。この世界にはいろいろな音楽が鳴っているが、自分を包んでいる母語の響きから、ちょっと外に出てみると、どんな音楽が聞こえはじめるのか。それは冒険でもある。これは「外国人文学」とか「移民文学」などという発想と似ているようで、実は正反対かもしれない。「外から人が入って来て自分たちの言葉を使って書いている」という受けとめ方が「外国人文学」や「移民文学」という言い方に現れているとしたら、「自分を包んでいる(縛っている)母語の外にどうやって出るか? 出たらどうなるか?」という創作の場からの好奇心に溢れた冒険的な発想が「エクソフォン文学」だとわたしは解釈した。


(中略)ある言語で小説を書くということは、その言語が現在多くの人によって使われている姿をなるべく真似するということではない。同時代の人たちが美しいと信じている姿をなぞってみせるということでもない。むしろ、その言語の中に潜在しながらまだ誰も見たことのない姿を引き出して見せることの方が重要だろう。そのことによって言語表現の可能性と不可能性という問題に迫るためには、母語の外部に出ることが一つの有力な戦略になる。もちろん、外に出る方法はいろいろあり、外国語の中に入ってみるというのは、そのうちの一つの方法に過ぎない。


(中略)最近日本のマンガを読んでいたら「このフレンチ・レストランはメニューもすべてフランス語のみ、高級な客しか相手にしない」という文章があった。外国語を習うこと、留学するということは「高級に」なること、つまり普通の人と差をつけて、国内で階級を上へ這い上がるという象徴的な意味を持っているらしい。しかも、誰が上手で誰が下手かということが確実に言えるということは、それを決定する権威が自分ではなく、どこか「外部の上の方」にあるということである。その権威は日本で抽象化された「西洋人」の偶像であり、その権威が、自分の言葉が「上手」かどうか決めてくれる、という発想である。それは家元制度的な発想と言うよりは、むしろ植民地的な発想だと言えるだろう。


多和田葉子『エクソフォニー』岩波書店 pp.3-10.抜粋して引用)






   『ファンファーレ』とは?



《エクソフォニー》、つまり母語の外に出るという点について演劇で言えば、日本を飛び出して、ヨーロッパやアジアで精力的に創作活動を行う平田オリザさんや、東京を飛び出して、青森や鳥取や北九州や韓国でワークショップや公演を積極的に行っている多田淳之介さん等が探究している。


『ファンファーレ』の場合、全て日本語で行われているので狭い意味では「エクソフォン芸術」とは言えないが、演劇・音楽・ダンスというジャンルを跳び越えているので、広い意味では「エクソフォン芸術」と言える。


『ファンファーレ』においては、多和田さんが経験しているようなドラスティックな変化はないかもしれないが、相応の変化は起こっている。例えば、「坂本美雨は歌手である」、あるいは「北川結はダンサーである」といった枠組みは、演じる当人も観客も取っ払わねばならない。また声楽科で学び、劇団四季に15年在籍した柳瀬大輔さんは歌手なのか俳優なのか、そして独立した今は何者なのか?


僕自身は、多様な語学能力を有していないのだが、英語を話せる友人が「日本語を話している時と英語を話している時で人格が変わる」と言っていた。なんとなく分かる気がした。これと同様に、『ファンファーレ』を観ていて、音楽ができる人とできない人、歌える人と歌えない人、踊れる人と踊れない人、芝居ができる人とできない人では、思考感覚、身体感覚が違うのではないか? また観ている世界が違うのではないか? という問いが浮かび上がってきた。


演劇で自分をつくってきた人、ダンスで自分をつくってきた人、音楽で自分をつくってきた人はみんな違う。同じ演劇でも全然違って、同じダンスでも全然違って、同じ音楽でも全然違う。何か1つの基準で上手下手を決められるものではない。とにかく多様性を持たせようとカタログ的にかき集めればいいというものでもない。単にジャンルを跳び越える、越境すればいいというのでもない。必然か偶然か分からないけれども、個々人が身につけたもの、自分自身の立ち上げ方をよく観てみること、そして何ができるだろうかとよく考えること。




   音楽劇『ファンファーレ』テーマ曲





   うたえば







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