ナイロン100℃『わが闇』
ナイロン100℃ 40th session
わが闇
作・演出: ケラリーノ・サンドロヴィッチ
松永玲子 長田奈麻
廣川三憲
喜安浩平 吉増裕士
皆戸麻衣
期間:東京公演 2013年6月22日〜7月15日
大阪公演 2013年7月20日
横浜公園 2013年7月23日
北九州公演 2013年7月27,28日
名古屋公演 2013年7月31日
観劇して感激して即日ツイートしたよ☆
↓↓↓↓↓
《感想》人生ダバダ
《わが闇・1》
ナイロン100℃『わが闇』@下北沢・本多劇場 「たかが演劇、されど演劇」、すごいね! 「演劇はリアルか?フィクションか?」なんていう愚問を全く寄せ付けない、圧倒的な人生感☆
《わが闇・2》
三人姉妹をめぐる悲喜こもごも、と書くとすっごく薄っぺらいものに感じてしまうけれども、終始漂うこの気配、その厚み。なにこの感じ? ストーリーとして追える部分や、目に見える部分とは違って、何かある、何かに感覚が乗っ取られている!
《わが闇・3》
「何これ?」 「影かな? 忍び寄る影って言うじゃない」「いや影じゃない。そんな局所的なもんじゃない。もっと全体を支配するようなもの。これは影じゃなくて、闇だよ」「一寸先は闇ってこと」「いや一寸先じゃなくて、もうすでに闇なんだよ」
《わが闇・4》
わが「闇」というのは、三人姉妹の長女がそうなるとか、人生って分からないもんだよ=人生は闇だよ、という比較的分かりやすいメッセージとしてタイトルになっているというのも否定できないけれども、そういうことじゃなくて…..
《わが闇・5》
「闇」っていうのは、言葉じゃなくて空気、いや空気って言葉じゃ軽すぎる! そうじゃなくて、質感っていうか、感じる気配、だから気配じゃなくて、ちょっと前に流行った脳科学のクオリアってことだろうけど、クオリアって命名したところで何も解決しねーよ!
《わが闇・6》
まだ死んだことないから分からないけど、人生80年生きるとして、死ぬとき何を感じるかって言えば、案外何も感じないんじゃないか? 感じないと言ったら嘘だけど、いろいろあったことがものすごーく平たく引き延ばされて感じられないんじゃないか?
《わが闇・7》
きょう観た『わが闇』は、おそらくリアルに死ぬであろう時に感じる人生とは違って、もっともっと濃厚な人生、つまりフィクションなのだけど、この感触は、かなり長いことリアルに記憶に残ってゆくだろう。
《わが闇・8》
その記憶っていうのが、もしかしたら、この作品で一番重要な三姉妹のそれぞれの人生のいろいろってことじゃなくて、ほんの些細なことかもしれない。
《わが闇・9》
例えば、いてもいなくてもどうでもいい、唯一ビデオテープをなくすという大役を果たしただけの助手・大倉孝二(おい!空気読めよ! 笑)の演技かもしれないし、
《わが闇・10》
あるいは、松永玲子さんの演技がショックで、「好きな女性の見てはいけないものを見てしまった感」だけが記憶に残るかもしれないし(涙)、
《わが闇・11》
ダバダ
だけ、かもしれない(汗)
《わが闇・12》
そうそう『わが闇』と関係ないけど、フェリーニの『道』で記憶に残っているのは、ザンパノをいつもおちょくって飄々としていていて、命綱なしで綱渡りやってる芸人が、大切にしていた時計が壊れた、それで死んでしまったってこと。
《わが闇・13》(終)
追記
《わが闇・追記1》
パンフレットの俳優のコメントが興味深い☆
《わが闇・追記2》
今回は、めずらしく「これでもか!」というくらい稽古をする時間があるので(笑)、役について台本に描かれていない部分も増やせると思うし、目線の動き一つで空気が変わる繊細なシーンも多いので、そういう微細なものの積み重ねによる、微妙な変化が生まれつつあります。(犬山イヌコ)
《わが闇・追記3》
ただ、台本を読み込んでも、それで得たものをどこまで提示するかは別の問題なので、もしかしたら初演とまったく同じものになるのかもしれません。むしろ読み込んだ部分をどれだけ隠すか、ということになるのかも。(松永玲子)
《わが闇・追記4》
寅夫もギリギリの状態なんだとは思います。もともと嫌なところのある人なんだろうけど、なくしたものが多すぎるせいか、一言一言が裏目というか、嫌な感じに聞こえてしまう。世の中を信じていない人。やっていて「痛いな、つらいな」という感じではありますが、迷惑で面白い人だなと。(みのすけ)
《わが闇・追記5》(終)
今あらためて稽古をしていく中で、やっぱりいい作品だなと思いました。大波乱やスペクタクルがあるわけではないけれど、日常的な心の機微や些細なやり取り、そこから生まれてくるすれ違いが綴られていく。こういう世界観はものすごく好きですね。(廣川三憲)