岡崎藝術座『ISLA! ISLA! ISLA!』




   


《演劇》岡崎藝術座





タイトル: 『ISLA! ISLA! ISLA!』



作・演出: 神里雄大


■■出演


稲継美保


嶋崎朋子


武谷公雄


松村翔子


和田華子



■■スタッフ

美術:稲田美智子
衣装:藤谷香子(FAIFAI)
舞台監督:寅川英司+鴉屋
照明:筆谷亮也
音響:和田匡史
技術監督:寅川英司
技術助手:河野千鶴
舞台監督:横川奈保子
宣伝美術:古屋貴広(Werkbund)



■■日程・会場

2015年12月3日(木)4日(金)@早川倉庫(熊本)
    12月17日(木)〜20日(日)@京都芸術センター(京都)
2016年1月9日(土)〜 17日(日)@早稲田小劇場どらま館(東京)
    2月3日(水)〜 8日(月)@STスポット(横浜)



■■チケット


こちら





  感想文:和田華子さんの声が妙な感じで通っていた。


これまでに観たけれども書いていない劇作家(劇団)が何人かいる。最近で言えば桑原裕子さん(KAKUTA)。昨年末にKAKUTAの『痕跡(あとあと)』を観てまだ書いていないのだけど、これはもうちょっと調べたいことがあるからという理由でまだ書いていない。『痕跡』は「悲劇」ということをすごく考えさせられる作品で、角田光代さんの『八日目の蝉』とソポクレス『オイディプス王』をもう一回読んでから書こうと思っている。『痕跡(あとあと)』と『八日目の蝉』とはシチュエーションは似ているのだけど、主眼が全然違う。『八日目の蝉』は原作も映画も物凄くいい作品で僕も好きなのだけど、この作品はある事件があって、その当事者(内)と報道される人間像(外)といった内外のズレをつぶさに描ききっている。対して『痕跡』はある事件が起こって、それによってボタンを掛け違えることになった人間関係の後々を群像劇として描いている。さらに『痕跡』はある事件をきっかけにした物語ということで『オイディプス王』と比較したいのだけど、『オイディプス王』は「後々」というよりも運命の「逆転」が主眼になっている。だから『オイディプス王』だけではなく、「悲劇」という広い範囲で『痕跡』を捉えたいということで、ソポクレスの他の悲劇も読んでみようと思っている。そういう訳でまだ書けていない。



それから前田司郎さん(五反田団)。五反田団はよく観ているほうだと思う。でもまともな文章をまだ一度も書いていない。書いていないというか、正直に言えば、書けない。なんで書けないかと言えば、前田さんの場合、ガチンコで行ったら負けるから。だからガチンコでない書き方というか、スタイルを身につけたいと思っているのだけど、その力の塩梅がまだうまくつかめない。



それから、それから、もう一人書けない劇作家が、神里雄大君(岡崎藝術座)。神里君の場合も当初は前田さんと同じく、ガチンコで行ったら負けるという感じだった。『リズム三兄妹』とか『ヘアカットさん』とか『古いクーラー』とか。ただ前田さんと違って、神里君の場合は、その後、純粋に分からなくなってきて、書けなくなった。『(飲めない人のための)ブラックコーヒー』くらいになると完全にポカーンとしてしまった。



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きょうの『ISLA! ISLA! ISLA!』もそうだけど、神里作品はいわゆる戯曲の形式に則ってないというか、戯曲ってふつう会話が軸になるけど、神里作品は会話ではなく独白がどんどん深化していっている。『ISLA! ISLA! ISLA!』が文芸誌の『新潮』(2016年2月号)に掲載されたというから観劇後に読んでみたけれども、戯曲どころか小説の形式にも則っていない。何なんだろう、この形式は? 神里作品を何度も観劇しているからそれなりの覚悟をもって挑むのだけど、いつもじぶんのなかで調整がつかないまま終わってしまう。



でも、なんて言うか、神里作品は、すごく違和感があるのだけど、意味をとることを拒絶している訳ではなく、ちゃんと意味は取れる。特に今回の『ISLA! ISLA! ISLA!』の独白は、ある意味、非常に理路整然としている。例えば、こんな感じ。



ここの天然のサトウキビは素晴らしい、成長も早く、糖分も豊富だから、これを島のみんなで収穫しよう、と言う。それでどうする気なのだ、と聞けば、みんなの収穫を持ち寄って、近隣の国と貿易をしたらどうか、と言う。


たわごとはよせ! わたしたちの油のことか! 燻製はわけてやってもいいが、あれはわたしに所属するものであり、外貨獲得のための重要な資源であり、同時に、今後はさらに新住民が増え、周辺諸国との重要な外交手段として機能するであろうから、政治的に非常にデリケートで、そのような話を気まぐれにやってきたおまえたちにするつもりはない。こちらとしては、必要に応じて、必要な分だけ、油を売ってやることはできる。考えてもいい。けれどそれは、慈悲の心から出るもので、交渉はしないほうがいい。わたしはおまえたちをどうにでもできるのだから。

『ISLA! ISLA! ISLA!』は小笠原諸島がモチーフになっている作品で、独白の内容からもそれは理解できる。また小笠原諸島が特異な場所だということも分かる。僕も小笠原諸島には行ったことがないけれども、伊豆大島には行ったことがあって、あそこも車が品川ナンバーだった、東京都なのだ。でも東京と聞いてイメージする東京ではない。飛行機も一応あるけど基本的に船でしかいけない。船でしかいけない所なので雰囲気が全然違う。下手な外国よりも外国っぽい。伊豆大島は高速船だったら2時間くらいだからまだ近いけど、これが小笠原諸島となると船でまる1日くらいかかるから、文字通り海外って感じなのだろう。領土的には日本だけど、日本なのかって話。



地図で「小笠原諸島はここ」とは言える。地球に関して言えば全ての土地が発見されているから地図をみれば、どこかは分かる。またどこの国の領土かも分かる。小笠原諸島は日本の領土である。しかし領土というのもよくよく考えればおかしな話。領土って昔から決まっていたのか?って。國分功一郎さんの『近代政治哲学』という本にこんなことが書かれている。



(封建国家には)実に奇妙な  近代的な常識からは奇妙に思える  事態が見いだせることになろう。封臣が複数の封主と契約を結んだり、あるいは遠方の封主と契約を結んだりしている場合には、その封臣の支配地域がいったいどの国に属しているのかが不明確である。つまり、封建国家についてはその領土を語ることができない。封建国家には領土の概念がない。封建国家にあるのは、契約による人的結合だけである。確かに国王はいるのだが、その支配地域の封臣は、隣国の、あるいは海を越えた国の封主と契約を結ぶこともあり得たのだから。


するとさらに、興味深いことが分かる。領土が存在せず、契約関係だけが複雑に絡み合っているのだとすれば、どこまでが国内でどこからが国外かを確定することもできない。つまり、封建国家においては、国内社会と国際社会という区別が成り立たない。近代国家は何よりもまず、領土によって定義される。だから、その常識に慣れ親しんでいる我々にとっては、これはなかなか想像ができない世界であろう。しかし、そうした領土の概念で国家を見る見方の方が新しく、また歴史も浅いのである。


國分功一郎『近代政治哲学』ちくま新書 pp.21-22. ※( )内は拙者が補足した。

小笠原諸島が日本の領土というのは、単に領土っていうだけで「小笠原諸島=日本」と話を単純にしてしまってはいけない。これはまさに「近代」という合理化による弊害だ。こういう盲点を考えることは実は重要で、例えば今では当たり前になったスマホやコンビニがない頃の生活を想像したり、自家用車がまだほとんど走っていなかった東京の街を想像したり、海外諸国とほとんど接する機会のなかった江戸の人びとを想像したり。こういった現在とのギャップを考えればけっこう面白いのだけど、大河ドラマなんかはこの問題を確信犯的にスルーしている。いまイケてるタレントがそのまんま歴史上の人物を演じてしまっている。それはそれでいいのだけど、そうなるとやっぱり単なるエンターテイメントでしかない。



対して『ISLA! ISLA! ISLA!』は、このように我々が勝手になんとなく理解した気持ちになってしまっていることを蒸し返してくる。だから本当にびっくりする。びっくりしている自分にびっくりする。何にびっくりしているのか分かっていないというか、本当に何を観ているのかが分からないから。



小笠原諸島は行ったことがないから、なかなかイメージできなかったけど、ミクロネシアポリネシアメラネシア? 、観劇中、諸星大二郎の『マッドメン』でイメージを補っていた。




諸星大二郎 原画展より『マッドメン』



民俗学的というか、民族学的というか、こういった世界の見方というのは近代的な視点で捉えた世界とはまったく異なる。水木しげるさんや諸星大二郎さん、あと黒田硫黄とかも独特な世界を描く。演劇を観ることもマンガを読むことも重要だ。ホントに。



さらに、まだまだイメージが補いきれなかったから、観劇した帰りに本屋さんで写真集を2冊買った。石川直樹さんの『CORONA』と東松照明さんの『太陽の鉛筆』




石川直樹『CORONA』より




東松照明『太陽の鉛筆』より



写真でイメージを補うというか、写真自体もなにかしらきっかけがないとじっと観ることがないので、家に帰ってずっと観ていた。



それにつけても、『ISLA! ISLA! ISLA!』はいったいなんだったのか?



もう一つ思い出したのは、最近マルセル・モースを読んでいて、『社会学と人類学』の序文をレヴィ=ストロースが書いてるのだけど、この文章のなかで、レヴィ=ストロースは、マルセル・モースの研究手法の先駆性を認めて讃えつつ、同時に批判もしている。



主観主義と客観主義の区別を否定する試みに乗り出した民族誌学者をつねに待ち受けている悲劇的な危険は、誤解の餌食になるということである。すなわち、誤解とは、かれがようやく手中にした主観的把握が、主観そのものを別として、原住民の把握とはなんらの共通性を示さないものとなることである。かりに、主観が比較や伝達の不可能なものであるとして、自分と他人とのあいだの相違が主観的なものと客観的なものとの出会いの場でもある領域  つまり、無意識のことを言おうとしているのだが  において克服されないのだとすれば、この危険を避けることは不可能であろう。事実、一方では無意識的行動の法則はつねに主観的把握の埒外にある(われわれは対象としてのみそれを覚知することができる)にもかかわらず、他方では、この法則こそが主観的把握のあり方にとって決定的である。


それゆえ、社会学と心理学の緊密な共同研究を確信していたモースが、社会事実の一般的かつ特殊的な性格を規定する無意識というものへの注意をたえず喚起したことはしごく当然のことである。すなわち、《宗教や言語におけると同様に、呪術においても、まさしく無意識の観念が作用している》のである。そして、呪術にかんする覚え書き  右の語句はそこから引用されたのであるが  のなかで、たしかにまだ曖昧としたものではあるが、つぎのような努力が払われているのを目のあたりにみる。それは、《ヨーロッパ人の成人としてのわれわれの判断力》とは異なる《非主知主義的な心理》でもって《われわれの言語や理性のもつ厳格で抽象的なカテゴリー》に頼ろうとするのとは別個に民族学上の諸問題を定式化しようとする努力である。この努力のなかに、レヴィ=ブリュールのいう前論理性  これはモースが受けいれるはずのないものであるが  と一致する点が認められるというのはまったくの誤りであろう。むしろその真意は、モースが精神のいわば《第四の次元》、すなわち、《無意識のカテゴリー》と《集合的思惟のカテゴリー》に属する諸観念が混在している平面に達しようとして、マナ〈mana〉の観念にかんしてみずから試みたことのなかにおいて探らなければならない。


(中略)


無意識というものは、自分と他人とのあいだの媒介項であるといえよう。これらの諸前提をさらにつきつめていけば、われわれはまったく未知の場所とはおもえない平面に接続する。というのは、この平面にはわれわれの自己のもっとも内奥にあるものが秘められているからであるが、しかしまた、(より一層常態的にみて)この平面では、われわれは自分自身を失うことなしに、あらゆる時代のあらゆる人間のあらゆる精神生活の条件である  自分のものであると同時に他人のものでもある  行動形式に順応するからである。かようにして、無意識の形式における精神活動の把握(これは客観主義的でしかありえない)もまた、やはり主観化へと導かれる。というのは、結局のところ、これと同じタイプの作用によってこそ、われわれは精神分析においてわれわれの自己のなかのもっとも未知の部分をわれわれ自身からひきだすことができ、民族学上の調査において、われわれともっとも異質な他者にたいしてあたかも別の自己にたいするがごとくに接近することができるのであるからである。主観的自己と客観化する自己あるいは客観的自己と主観化された他者とのあいだのコミュニケーションというまさしく同じ問題がいずれの場合にも提起されている。そして、やはりいずれの場合でも、成功の条件は人間精神の内なる構造のなかや個人または集団の特定的かつ不可逆的な歴史のなかで決定的にその軌跡があらわれる無意識の過程での交流をもっとも厳密な意味での積極性をもって探求することである。


マルセル・モース『社会学と人類学 1 』弘文堂 PP.22-24.

つまり、レヴィ=ストロースは、モースが「無意識」を要請したことは評価しているが、マナ〈mana〉にせよハウ〈hau〉にせよ、無意識の実体化へと向かったことを批判している。無意識を捉える生命線は、その自律性であって、マナ〈mana〉やハウ〈hau〉をモースのように超越的なポジションに置いてしまうとシステムの自律性が失われて、作動しなくなる。あくまでもマナ〈mana〉やハウ〈hau〉をシステムの内部から要請されるものとして捉えねばならない。学問の難しさというのは、こういうところにある。



対して『ISLA! ISLA! ISLA!』では、もしかしたら、モースが抽出するのに失敗した「無意識」を抽出できているのかもしれない。以前、僕は「俳優=イタコ」という考えをとある写真家から言われたことがあるのだけど、『ISLA! ISLA! ISLA!』における俳優はまさにイタコという態をとっていた。まず和田華子さんとそばにいる4名の俳優のポジショニングが気になった。和田さんが中心的であるようでいて、ただならんでいるだけという感じでもあった。そして和田さんの声に「うっ!」となった。妙なところから出ていたというか、妙な感じで通っていたというか、貫通してきたというか、力を感じたと言う訳ではなくて、なんだろ、あれ? 和田さんのほかの3名の女優、稲継美保さん、嶋崎朋子さん、松村翔子さんも声がどこから響いてくるのかわからないという感じでもあった。声の質にも「んっ?」と感じさせるものがあった。ちなみに力を感じたというか、力がどこからともなく湧いてくるようであったのは男性の武谷公雄さんだった。それから男性1名、女性4名という編成も気になった。その有様は、儀式的ではあったのだけど、儀式として捉えるというよりも日常の営みとしてみた方がよいのか、島との対話、交信とみた方がよいのか。島は人の外部ではない。島というのは一つという感じがするから、人間と同じく一人としてカウントしてもよいのだろう。






  《神里雄大作品》感想文



 観た人の岡崎藝術座



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