ヤン・アレグレ『ハナノミチ』






タイトル: 『ハナノミチ』


作・演出: ヤン・アレグレ


翻訳: 藤井慎太郎

出演: 安倍健太郎
    川隅奈保子
    工藤倫子
    熊谷祐子
    多田淳之介
    鄭亜美
    兵藤公美


スタッフ:
  照明=シリル・ルクレーク 西本彩
  映像・美術=ジュディス・ボーディネット
  音響=ファブリス・プランケット
  舞台監督=渡井理惠
  通訳=松野加奈子
  宣伝美術=京
  制作=ハナノミチプロジェクト制作部
  総合プロデューサー=平田オリザ



会場: こまばアゴラ劇場


日程: 2008年7月17日(木)〜22日(火)〔公演終了〕




※ 詳しくは、青年団公式ウェブサイトでご確認ください。



《ヤン・アレグレ氏からのメッセージ》



「ハナノミチ」とは、空虚と夢を通っていく歩みのことである。


2006年夏に初めて日本に来て、名古屋にあった安宿の何もない畳の上で、「ハナノミチ」を執筆しはじめた。この空虚での孤独の体験がきっかけとなっている。孤独に面した人間の、夢の淵での歩みがはじまった。執筆、愛の関係、人生の関係、これら全ての歩みが少しずつ混じり合い、その道を行く者だけに、空虚の下に潜んでいる人生の本質が見えてくる。



1.入口
2.意志によって生まれる空虚
3.自ら生まれる空虚
4.持たざるものの空虚
5.凝固
6.苦い破壊の夜
7.意識せざる空虚
8.無
9.意識によらない空虚、その本質
     迷宮
10.底の見えない淵

10の段階、10の言葉が次々に生まれていき、少しずつ夢と現実が混じりあっていく。様々な姿の人間や動物が生まれ、前のシーンと重なり合っていく。世界の誕生。愛の関係。別れ。破壊と再生。


2年前にこのプロジェクトを始めた時、ここに書かれている謎を解くには、その回答を見つけようとするのではなく、鏡に映ったもののようにその謎自体を舞台の上で再現していこうと考えた。そうすることで、夢に近づき、それが持つ色、具体的な意味、激しさ、喜びを見つけられるのではないかと。


常に変化し続け、役者一人一人がナレーターにも夢を見ている人物にもなれ、さらには別の人物の夢に登場するものの姿にもなり得る。


「ハナノミチ」は、孤独というところから始まり、そこから世界の再発見に向かっていく。その世界では全てのことが結ばれ、呼吸も変化している。青年団の役者たちと2年間こうして謎解きをしてこられたことに感謝の意を表したいと思います。
そして勿論平田オリザ氏にも。



ヤン・アレグレ 2008年7月13日





※ 『ハナノミチ』公演パンフレットより



《私が書いた感想》



拭いきれなかった疑問







《1》 “空虚”に対する考え方に疑問を持った。〔1.入り口〕では無、沈黙を感じたけれども、〔2.意志によって生まれる空虚〕からはもう埋め尽くそうとする力が強過ぎて、それ以降は“空虚”を一抹も感じなかった。言葉、文字、etc. 理性が走り過ぎていると思う。(“空虚”から逃げようとするばかりで“空虚”と対峙できていない。“空虚”は恐れるだけではなく融合して一体となることも可能なのだから。)


※ 家に帰って冷静に考えると後半〔8.無 9.意識によらない空虚、その本質 迷宮 10. 底の見えない淵〕は、“空虚”と融合して一体となっていく姿を表現していたのだと思えた。ただ前半のショックが後を引きずってしまって、観劇中は、後半がほとんど観られなかった。(小説を読むように、例えば志賀直哉『暗夜行路』を読むように、ゆったりとした時間とともに観れば、後半で表現されていた大らかな世界観を受けとめることができたかもしれない。しかし、そう考えたとしても、後半でもまだ埋め尽くそうとする力、理性がやはり強かったように思う。)




《2》 〔4.1 女が入ってくる〕はすばらしかった。女(前半)は語る。しかし意味や論理ではなく、それは声(感情)になりきっていた。声が昇華して突き抜けた。何か見えない世界(空虚)が見えた。それも机上の話ではなく、彼女(俳優)という実体を通して見えたのだ。


女(後半)も語る。しかし彼女は身体(動き)になりきっていた。彼女は「疲れた」という。それはセリフかもしれないが、本当に疲れたのだろう。身体が極限に達し、突き抜けた。演技ではなく、実体としての彼女(俳優)の身体が突き抜けたのだ。ここでも見えない世界(空虚)が見えた。


※ このあたりは、ヤンさんの真価が一番よく発揮されていた。演劇(フィクション)で語られている、展開されている世界に、俳優のリアルな声・身体が介入していき、フィクションの世界がフィクションの世界で閉じずに、リアルな世界へ顔を覗かせていた。この演出は、演劇だからこそ可能な、最も見ごたえのある演劇の醍醐味だと思う。




《3》 《1》の“空虚”の考え方に対する疑問は、おそらくヤンさんと私との世界観や性質の違いによる。どちらが正しいかという問題ではない。それよりも大切なのは、今日、私がヤンさんの作品を観たことで、私のなかに何かが芽生えたということだ。それは何か分からないが、確かな手応えがある。私は今後、この新たに生まれた何かを大切に育てていこうと思う。(←よく分からない言い回しだが、要するに私一人では生み出すことのできない力を得たということを言いたいのだろう。)




《4》 最後にヤンさんをはじめ、俳優の皆様がこれ程のパワーを秘めていること。そして、その莫大なパワーをこの度の公演で出しきられたことに敬意を表します。



ありがとうございました。








【追記】 自分で読み返しても歯切れの悪い感想だと思う。それは圧倒的なパワーを認めながらも、どこか私自身戸惑っているからだろう。実はこの傾向ははっきりしていて、簡単に言ってしまえば、私の欧米不信に因る。


先日、ラ・ラ・ラ・ヒューマン・ステップス「アムジャッド」を観たときも同じような感想を持ってしまった。驚異的なスピードで展開されるダンス。誰も真似できない他を圧倒するスタイル。それは確かに「美」であり「芸術」であった。ただ、そのスタイルで『白鳥の湖』『眠れる森の美女』をやる必然性が全く感じられなかった。そこには、圧倒的な強さばかりが際立って、芸術性が感じられなかったのだ。



今回の場合、ヤンさんは次のような世界を描きたかったのだと思う。


疲れ切ってはいるが、それが不思議な陶酔感となって彼に感ぜられた。彼は自分の精神も肉体も、今、この大きな自然の中に溶込んで行くのを感じた。その自然というのは芥子粒程に小さい彼を無限の大きさで包んでいる気体のような眼に感ぜられないものであるが、その中に溶けて行く、−それに還元される感じが言葉に表現出来ない程の快さであった。何の不安もなく、睡い時、睡に落ちて行く感じにも多少似ていた。一方、彼は実際半分睡ったような状態でもあった。大きな自然に溶込むこの感じは彼にとって必ずしも初めての経験ではないが、この陶酔感は初めての経験であった。これまでの場合では溶込むというよりも、それに吸込まれる感じで、或る快感はあっても、同時にそれに抵抗しようとする意志も自然に起るような性質もあるものだった。しかも抵抗し難い感じから不安をも感ずるのであったが、今のは全くそれとは別だった。彼にはそれに抵抗しようとする気持ちは全くなかった、そしてなるがままに溶込んで行く快感だけが、何の不安もなく感ぜられるのであった。
志賀直哉『暗夜行路』)


しかし、これがどうも感じきれなかった。俳優の演出や力の引き出し方は誰も真似ができないほどの力量を持っているにも拘わらず、肝心の表現すべき根本の部分に対しては、どうしても疑問が拭いきれなかった。



ただ、この問題は、現時点では、欧米の作家が抱えている欠陥と、私自身が抱えている欧米に対するコンプレックス(海外経験がない、英語が話せない)とが入り交じってしまっている。これでは話にならない。


この問題の解決は、私の生涯をかけて取り組むレベルの仕事だけれども、英語学習と文献講読はもっとピッチを上げて取り組まねばなるまい。



※ 実際に提出した感想に、赤字部分と追記を加筆する等、多少手を加えています。







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