イキウメ『煙の先』


《完成版》(12月9日改訂)




《演劇》イキウメ試演会2







タイトル: 『煙の先』



作:  前川知大


演出: イキウメ役者部

■■出演


Aプロ: 浜田信也、岩本幸子、緒方健児、篠塚茜(シベリア少女鉄道


Bプロ: 盛 隆二、森下創、國重直也、伊勢佳世




■■日程・場所


11月26日(水)〜 30日(日)キッド・アイラック・アートホール




《イキウメスタイルの可能性》






序.


阪根: 僕は演劇を見始めてまだ間もないのですが、演劇のレベルの高さにびっくりしたというか、正直こんなに層が厚いとは思っていませんでした。今日の作品もとても刺激的でしたし、多田さんだけではなく、チェルフィッチュの岡田さん、五反田団の前田さん、ポツドールの三浦さんといった優秀な作家や演出家が同世代にたくさんいますし、さらに驚いたことにみんな全然違います。


それで質問なのですが、こういった同世代の作家同士での交流や、お互いの作品を意識することはあるのでしょうか?それとも「あいつらはあいつら、オレはオレ」という感じで他人の作品には全然興味がないという感じなのでしょうか?



多田: 僕らの世代は、まず20代で平田オリザの現代口語演劇を初めて観て衝撃を受けたんですね。それで自分たちでも現代口語演劇をやってみましたし、その後、色々と試行錯誤を重ねてきて30歳を過ぎたぐらいからですかね、ようやく自分のやりたい演劇というのが僕は見えてきたし、他の人もそうじゃないかな。 そんな感じで各々が考えてやってることだから当然違うのだけど、ただ全然違う訳ではなくて、根っこの部分はすごく近いと思いますよ。まあ、他の劇団の作品も観ますし、僕らの世代に優秀な作家や演出家、役者がたくさんいるという自負はあります。(※1)

記録によれば、私が初めて演劇を見たのは2007年11月20日岡田利規作・演出『ゴーストユース』であった。もちろん有史以前にも何本かは観たことがあるのだけど、如何せん記録が残っておらず、その記憶も定かではない。だから私の観劇歴はちょうど1年と言ってしまってよく、これから2シーズン目に突入しようとしているところだ。


観劇歴1年なんて話にならないし、先日会った人はなんと年間80本ぐらい観ているらしく、もっとすごい人になれば年間400本ぐらい観ているそうだ。上には上がいるということだけど、他人との比較はひとまず置いといて、私がこの1年で何本観たかを確認したら33本で、しかもだいたい毎月3〜4本をコンスタントに観ていた。1年目ということでやや頑張ってしまったのもあるし、知らない劇団ばかりでとりあえず観ておこうというのも多々あった。それでも、小説や映画よりも多いし、こうやって2シーズン目に突入しようとしているのだから、これはもう間違いなく「演劇にはまっている」のだ。


なぜそうなったかを自分なりに振り返ってみて至った結論が、冒頭で引用した多田淳之介さん(東京で公演をしない東京デスロック)の応答で、須藤元気に言わせればこうなる。



学びの基本は、『守・破・離』の法則です。


守って、破いて、離れる。


最初は先生の教えを忠実に『守り』ます。そこで物事の基礎を身につけます。それができたら次は、基礎を『破り』つつ、そこに自分なりの色をつけていきます。いわばアレンジです。アレンジができたら先生から『離れて』完全にオリジナル化する。それが『守・破・離』の法則です。


もしも、ボブ・マーレィを敬愛するミュージシャン志望がいるとします。その人はまず、ボブ・マーレィの音楽をしっかり聴き込んで、ボブになりきります。しかし、ここでポイントがあるのですが、マリファナを吸ってはいけません。捕まります。完璧にコピーできるようになったら、今度はちょっと自分の好みにアレンジして演奏してみたりして、味付けを楽しむ。それもできるようになったら、自分のオリジナル曲を創造すればいいのです。


料理・絵画・音楽・ダンス・ボケ、ツッコミ、何でもそうですが、学びのスタート時は他人のアプローチの仕方を真似るのが近道です。人生にも『守・破・離』の法則があてはめられますので、素敵な生き方をしている人や尊敬できる人を見つけたら、この法則を使ってみたらいいと思います。(※2)



風の谷のあの人と結婚する方法

風の谷のあの人と結婚する方法


名立たる哲学者の言葉を引っ張ってくるまでもなく、この説明で十分だと思う。もし私が劇場(とりわけ小劇場)に行って、そこで上演されているのが平田オリザ一色で、みんな現代口語演劇の物真似だったり、あるいは逆にアンチ平田などと言って「やっぱりアングラだ!」とみんな声を張り上げていたら、私は劇場通いをやめたことだろう。


また小劇場が自律性を完全に失っていて、みんながみんな「めざせ!シアターコクーン!!」で、小劇場がそのステップアップの手段と化していたらもう最悪だろう。それなら「シアターコクーン」だけ観に行けば事は済むし、こういう単純な世界ならば見切りをつけて、割安な映画へ行くか、小説を読んでさえいればよいだろう。



しかし演劇界はそうではなかった。劇場では、作家、演出家、役者、個々ならではの魅力が十分に感じられ、『守・破・離』のプロセスを経ていなければできない演目であり、しかも『離』の部分が強く感じられる作品が多々あった。


また、小劇場は小劇場で、大劇場は大劇場で、それぞれ独自の作品が上演されていた。確かに大劇場と小劇場とが棲み分けされているという感もあったが、どちらか一方が圧倒的に優位という感じでも、断絶されているという感じでもなかったので問題があるとは思わなかった。(大劇場は制約が多いと言っても、ポツドールの公演にあれだけ沢山のお客さんが観に来るのだから。僕なんか観劇後、最後の力を振り絞って書いた感想が「ぐったりした。」一言だよ。あれを平気で観ている女の子、デートで観に来ているカップルがいるんだよ!!! この人たちを大衆って言える??? ま、さすがにシアターコクーンは無理だと思うけど。。。)


作品のタイプも様々で、物語を丹念につくり込んだ作品もあったし、物語を拒絶した作品もあった。


THE SHAMPOOHAT 」、「ナイロン100℃」、あるいは「劇団、本谷有希子」といったあたりは物語を丹念につくっていて、新しいかどうかは分からないけれども、それぞれの作家ならではの個性が十分に感じられたし、役者はみな一様にレベルが高かった。とりわけ、これは私に問題があるのだが、テレビに出ている坂井真紀や永作博美といった俳優の演技がうまいのには完全にやられてしまった。私はテレビに出ているタレントを正直ナメていた。「どうせカワイイだけでしょ」と高を括っていたのだけど、坂井さんは栄える役柄も冴えない役柄も見事にこなしていて、その役柄に拘わらず、また腕利きの役者がずらりと舞台に立っているにも拘わらず、ひときわ目を惹いていた。また永作さんの場合、ここは「あの端正な小さな顔でニッ!と笑ってもらわないと困る」というシーンでばっちり「ニッ!」と笑ってみせていた。


その一方で、ご存知の通り「チェルフィッチュ」の作品があり、「東京デスロック」がパフュームをガンガンに流してイス取りゲームをやっているマクベスシェイクスピア)を上演し、そしてこれはもう言ってもいいのだろうか?「女優がたった1人、舞台で40分間、立っているだけ!!!」という作品もあった。



このように演目は様々で、私が劇場に足を運ぶたびに新たな発見があった訳だが、ずっと演劇を観続けている人や現場の人からすれば少し楽観的過ぎると感じるのかもしれない。「マンネリ化している」、「大衆化している」、あるいは「大衆化に失敗している」と感じているかもしれない。また、やれ「シェイクスピアを超えてない」、やれ「ブレヒトを超えてない」、やれ「チェーホフを超えてない」と躍起になっている評論家もいるかもしれない。そして、私もそう感じるようになるかもしれない。が、しかしまずは個々の劇団の、個々の作品の可能性を丹念に読み解いていくところから始めたいと思う。





1.前川知大のSF




僕の作品には宇宙人は出てきませんよ。宇宙人が地球を侵略しにやってくるとは思っていませんし、そもそもあまり興味ないですし(笑)。

SF作家の円城塔さんが、とあるトークショーで語っていたことで、その軽快な語り口が心地よくその時はあまり気にも留めず聴いていたのだけど、今振り返ると、いかにも物理学の研究者出身である円城さんらしい発言だと思う。


SFと言えば宇宙人、タイムマシンと相場が決まっていて、ありもしないことを空想で、面白おかしく物語ろうとする、エンターテイメント色が強いメディア(ジャンル)だと私は思っていた。


けれども、実際にSFを書こうと思えば「サイエンス・フィクション」、「科学的〜」と謳っていることから、文字通り教養や知性が必要とされ、また空想が了解されており、世界をいかようにでも描けてしまうことから逆に、描く世界にリアリティを出そうと思えば、ふつうに物語を書く以上の緻密さ、力量を求められるのかもしれないと私は考えを改めた。


例えば、西暦2500年の世界はいま生きている誰も知ることができないが、SFでは描くことが許される。その効果として指摘できるのは、今現在2008年について描かれていれば、誰もが自分が見ている2008年の世界を投影してしまうけれども、2500年となれば、そういった色眼鏡を比較的容易に外せるということだ。これは非常に重要なことで、SFの利点はまさにこういうことだ。何かを解明しようとする時、様々な制約に雁字搦めにされていると一歩も前に進めない。そこで何か1つ条件を緩和してみる。時間という枠組みを取っ払ってみる。空間という枠組みを取っ払ってみる。あるいは男と女という枠組みを取っ払ってみる。そうすることで、誤ってとんでもない方向へ行ってしまうこともあるが、問題の核心へより近づくという可能性も少なからずある。


前者は論外だが後者によって描かれた世界は魅力的であり、これこそがSFならではの醍醐味と言えるだろう。円城塔さんや、イキウメの前川知大さんの描くSFは後者であり、デタラメな空想ではなく、よりシリアスな「思考実験の場」としてのSFである。





2.前川知大:作『煙の先』(Aプロ)




今回上演された前川知大:作『煙の先』(Aプロ)は、「花を好きな人に悪い人はいない」という通説を起点として、「男Aが男Bを殺す」という結末までのプロセスを辿っていくというものである。登場人物は男A、男B、女A、女Bの以上4名。男女、各々の立場の違い、気質が織りなす力関係や力の変化をつぶさに描いた作品である。


まず面白いのが、イントロでのロジックのスライドである。



・花が好きな人に悪い人はいない。→ ○


・花が好きなカワイイ女の子に悪い人はいない。→ ◎


・花が好きなオッサンに悪い人はいない。→ △

何の根拠もない通説だが、この根拠のない印象だけで私たちの思考は大きく左右される。花屋の店先で、女の子が花を手にして店員と話していたとする。何を話しているかは分からないけれども、この光景を疑うことはまずない。「あの子、花なんて興味ないくせに」と思うのはよっぽどのひねくれ者だろう。そして、女の子がかわいかったら、より一層好ましい光景に見えてくることだろう。では、これがオッサンだったとしたら? それだとちょっと疑うかもしれないし、オッサンだったらむしろ良いと思うかもしれない。


このように印象だけで私たちの思考は大きく揺らぐ。そして『煙の先』(Aプロ)は次のような問いかけからスタートする。



カワイイ女の子が花を万引きしたら、その子は罪を問われるか否か?

この問題設定がすでにSF、科学的思考を挑発していることからも分かるように、この作品は、SFだから科学的知識を駆使するというのではなく、科学的なものの見方と通俗性なものの見方の双方への批判、双方の行き届かないところを今一度、原理的に考察してみようというものである。


まず感じられたのは、ワイドショー的コメントに対する批判。ある事件が起こると必ず聞かれる「親の愛情が足りなかったから・・・」、「中学生頃までは成績も良かったのだけど、高校へ上がった頃から・・・」といった言説の真実味のなさ。


次に、科学者、学識経験者に対する批判。最近の流行なのか、最先端なのか、学者はみな口をそろえて「偶有性」とか言うけれどもどうだろうか。「説明できない」ということをうまく説明できるようになったという程度の話ではなかろうかという不信。


もちろん、これは私の暴言であり、事実はそうではない。きちんと「偶有性」を問うレベルに到達して言及している人も確かにいる。


先日、哲学者の樫村晴香さんと話す機会があり、樫村さんは「サドが面白い」とおっしゃっていた。けれども、私にはその意味がさっぱり分からず、ずっと気になっていたのだが、最近それがやっと理解できた。



ブランショが言わんとするのは、「単純なだけにそれだけいっそう強力な荒ぶる力が、曖昧さのない、いかなる底意をも欠いた言葉、いつでもすべてを語り、虚飾を用いず、純粋に何かを語る言葉によって現れる」ようなサドの言語表現の狂気である。この場合、自由とは所有されるべき権利ではなく、善と悪、美徳と悪徳、否定と肯定といった価値の世界を廃するエネルギーの運動そのものである。だから、〈すべてを言うこと〉は「私が意のままに何でも発言できること」とは異なる。自由な私が言語表現の無際限な権利をもっている状態が想定されるわけではない。書くことを通じたサドの狂気とは、私が自由にすべてを言うことではなく、〈すべてを言うこと〉が自由そのものの可能性の条件となっていることなのである。ブランショがサドの内にみるのは、言語表現の十全な可能性が言語を行使する主体的権能を凌駕するという絶対的な自由である。(※3)



条件なき大学―附:西山雄二「ジャック・デリダと教育」

条件なき大学―附:西山雄二「ジャック・デリダと教育」


哲学者の西山雄二さんのテキストからの引用だが、文学理論の最先端と言えば、まさにここだろう。デリダからブランショを経由してサドへと抜けていくルート。ここを開拓することだと思われる。これは昨今、脳科学者や社会学者が盛んに口にする先に述べた「偶有性」という概念とも絡んでくる。


こういったテーマについて言及する人がいるのは良いことだし、ぜひ開拓して頂きたいと思う。ただ私が断っておきたいのは、樫村さんや西山さん、あるいは郡司ペギオ幸夫さんといった方々がこういったレベルのテーマに取り組むのは良いが、猫も杓子も「偶有性」と言うのはおかしいということだ。


各々の思考のレベルは区々であり、各々が解けていることと解けていないことも区々である。それに基づいてテーマが設定されるべきであるし、設定したテーマが最先端のテーマでなかったとしても、少なくても個々の次元において、そのテーマを克服すれば大きな前進になる。またそれを表明することの方が何かよく分からないことをデタラメに言うよりは、説得力を持つし、聴く側にとっても有益であろう。


そこで、前川知大:作『煙の先』(Aプロ)だが、 私が観劇後に想起したのは、ヘラクレイトスであり、ゲーテであった。ヘラクレイトスソクラテス以前の古代の哲学者であり、ゲーテも18,19世紀に活躍した作家であり、最先端の理論とは決して言えない。また前川さんがこの二人を意識して書いたか否かも分からない。しかし、この作品の緻密さと説得力を考慮すれば、デタラメに書かれたのではなく、何かしらの根拠があって書かれているのは確かだ。しかも面白いことに、ワイドショー的言説のようにいい加減ではないし、最先端の理論でも見落としているのではないかという新たな発見があった。





2-1.『煙の先』(Aプロ)ゲーテ




まずはゲーテとの比較から検討してみよう。


『煙の先』(Aプロ)の帰結は「男Aが男Bを殺す」である。男Aと男Bは同郷の旧友であり、両者の間に力関係の差はなく、殺害に至るような節はない。しかし、そこに女A(カワイイ女)が絡むと事態は一変する。


男A(花屋のアルバイト店員・さえない男)は女A(カワイイ女)にぞっこん惚れ込んでしまう。花を万引きしようとした女Aが女B(店長)に延々と説教されている現場に居合わせたことから、女Aに感情移入してしまい、女Aを守ること、女Aの潔白を証明することを自分の使命と思い込む。理屈ではなく、また女Aが求めていないにも拘わらず、この目的を達成しようと作動してしまう。


一方、男Bは犯罪者気質の人間で、女Aとは一歩引いた関係を結んでいる。男女だから恋愛関係というのではなく、男Bは犯罪を遂行するために女A(植物生殖学を研究する大学院生)を利用する。犯罪遂行のフレーミングをするのは男Bであるが、そのプログラム(新種の花を盗んで転売すれば莫大な利益を上げられる)は女Aが規定する。また女Aは自らの行動の規定を男Bに依存的に託している面があり、男Bと女Aとは一方的な支配関係ではなく共同体と化している。


つまり、男Aと男Bに女Aが絡むと次のような関係になる。男Aは女Aに一方的に惚れ込んでいるため、女A(高)と男A(低)という力量差が発生する。男Bと女Aは共存関係であり、また女Aが自らの行動の規定を男Bに委ねていることから、男B(やや高)で女A(やや低)という力量差が発生する。つまり、男A<女B<男Bという力量差が生じる。


そして、三者関係のなかでは圧倒的弱者である男Aが、「男B=犯罪者である」ことを明らかにし、また男B(犯罪者)と女Aとの関係を断ち切ることにより、女Aを自らの手で救えると考える。そして最終的に、男Aの女Aを守り、女Aの潔白を証明しようとする暴走した力が、男Bを殺害するに至ってしまう。


一言で言ってしまえば、単なるメロドラマなのだが、いやいや侮れない。それでは一方の巨匠ゲーテはどうだろうか。こちらの物語も負けず劣らずメロメロである。石川忠司さんの要約が適切なのでそのまま拝借して見てみよう。



『親和力』のストーリーは一言で言ってゲルマン風の昼ドラだ。時は十八世紀、舞台はドイツの田舎貴族の領地。主要な登場人物は、当の領地の領主たるエードゥアルト男爵とその妻のシャルロッテ。そしてシャルロッテの姪にあたるオティーリエと、エードゥアルトの親友である大尉の以上四人。エードゥアルト/シャルロッテ夫妻が知識・経験ともに優れた大尉を招いて、領地に「統治の技法」を施そうといろいろ案を練っているとき、引っ込み思案で内省的なゆえ、寄宿学校に適応できないオティーリエをエードゥアルトのもとに引きとることとなる。この善意の措置が悲劇的な事件のそもそもの発端を成すわけだ。


屋敷で一緒に暮らすうち、多分にお調子者で尻の軽いエードゥアルトはオティーリエの美しさ、聡明さ、芯の強さなどに触れて彼女に惹かれはじめ、オティーリエもまたエードゥアルトを愛するにいたる(しかし有頂天になったエードゥアルトは驚くほどみっともない)。一方、ともに協力し合って領地へ「統治の技法」を施す計画を進めるうち、シャルロッテと大尉の間にもほのかな愛が芽生える。そしてある晩、エードゥアルトとシャルロッテは、エードゥアルトがオティーリエを、シャルロッテが大尉を、それぞれ心に想いつつ交わると、しばらく経って生まれてきた赤子は何とオティーリエと大尉とにそっくりであった。


大尉への想いを絶ち切ろうとしたり、オティーリエをふたたび寄宿学校へ戻そうと図ったりと、どうにか婚姻関係を立て直そうと努力していたシャルロッテ(彼女のまともさと比べるとエードゥアルトの方は、このままだとオティーリエと別れるハメになると考え、そんな現実に耐えられなくて一時的に戦場へと逃げ出すほどのヘタレである)。しかし、シャルロッテの努力にもかかわらず、いざ両親の精神的不実の結晶としての赤子が誕生すると、展開は加速度的に悲劇としての相貌を帯びてくるのだ。


赤子を抱いて領地内の湖をボートで渡っていたオティーリエは、うっかりその子を水に落として死なせてしまい、自らも絶食の果てに命を絶つ。それを知り無気力状態に陥ったエードゥアルトは、オティーリエの葬儀のあと、ほどなく死んでいる(自殺?)ところを来客に発見されるのである。    現在でも東京12チャンネルあたりでドラマ化したら、立派に鑑賞に耐えるに相違ないストーリーだろう。(※4)



親和力 (講談社文芸文庫)

親和力 (講談社文芸文庫)


前川知大『煙の先』は短篇であり、ケーススタディであるが、ゲーテ『親和力』は長篇であり、世界そのものを描こうとしており、とりわけ運命(人知の及ばぬ力)の描写が色濃いという違いはあるけれども、両者に共通している興味深い点は「恋愛」を原理レベルで捉えている点である。「恋愛・愛」は力であり、ゲーテに言わせれば「親和力」である。


ところで、この「愛」という力の位置付けは微妙である。そもそも自然の力というニュアンスが強く、「愛」=「親和力」については「人間/自然」の区分は有効ではない。両者に見境なく働く。また相手あってのもの、双方向的という意味で「主体/客体」という区分も有効ではない。


ゲーテがこの「愛(親和力)」という力を説くのは、古典的フレームとしての「運命/意志」においてである。そして、この力は自らではコントロールできない、己に降りかかってくるという意味では《運命》(人知の及ばぬ力)と位置付けられるが、それと同時に、この力は悲劇(絶望)へも、喜劇(希望)へも転じる可能性を持ち得ることから《運命》に抗う可能性を秘めた力、つまり《意志》とも言える。


私としては、「愛(親和力)」は人知の全く及ばない力ではないこと、またこの力の持つ「希望」への可能性に賭けて、「愛(親和力)」を《意志》と位置付けたい。ただし繰り返し断っておくが、これは古典的フレームでの「意志(/運命)」であって、「主体(/客体)」、「個(/全体)」という近代的フレームとの互換は留保する。


さて、ゲーテから読み取れる《意志》(人知の及ばぬ力に抗う可能性を秘めた力)として、「愛(恋愛)」以外にもいくつかある。例えば『ヴィルヘルム・マイスターの修行時代』からは「成長(メタモルフォーゼ)」と、あともう一つ「芸術(アート)」が読み取れる。整理しておこう。



  [意志]


定義: 運命(人知の及ばぬ力)に抗う可能性を秘めた力




・ 恋愛・愛 (親和力)


・ 成長・メタモルフォーゼ (遠心力)


・ 芸術 (アート)

ゲーテに言わせれば、個人であれ、世の中全体であれ、人々を支えているのは、この3つの力である。もちろん『ヴィルヘルム・マイスターの修行時代』のなかでビジネスも取り上げられているが、これはあくまでも生きていくための手段に過ぎない。


ビジネス(儲かる・儲からない)が世の中を支える力であり、恋愛・成長・芸術はその手段に過ぎないと説く経済至上主義の昨今とは考え方がまったく逆である。はて、ゲーテが正しいのか誤っているのか。はて、私たちが正しいのか誤っているのか。


それはさておき、愛(親和力)、メタモルフォーゼ(遠心力)、芸術(アート)を並記したことに疑問を感じた方もおられるだろう。よろしい。


愛(親和力)については「自然/人間」の区分はないと先に言った。これはメタモルフォーゼ(遠心力)についても同じである。これらは「自然」においても「人間」においても同様に作動する。しかし、芸術(アート)は、カントの『判断力批判』における議論にあるとおり、人間のみのものである。



芸術は自然と区別され、芸術の産物ないし帰結は作品として、結果としての自然から区別される。(カント『判断力批判』第四三節より)※5


自然からアートを区別した後すぐに、カントは続けて、自由の産出、自由による産出のみを、「アート」と呼ぶべきであろうと言明している。本来的な意味におけるアートは、自由意思を作動させ、活用するのであり、その行為の根底に理性を置いている。したがって、アートとは、本来的な意味では、自由な存在の、そして理性=言葉をもつ存在のアートだけを指す。つまり、蜜蜂の産出物(「規則的に構築された蜜蜂の巣」)は、アート作品ではないのである。(※6)

これ以上深入りするのはひとまずよそう。ここで確認しておくべきは、愛(親和力)、メタモルフォーゼ(遠心力)は同類であるが、芸術(アート)は根本的にこれらとは類が違うということである。そして、この類別を厳密に適応するならば、本当の意味で《意志》と定義できるのは「芸術(アート)」のみであるということである。


「芸術学」が、芸術の存在根拠を《崇高性》に求める「美学」と訣別して、また事後的な《様式》区分を主要事とする「美術史」とも訣別して興った際、その軸となったのが《芸術意欲》(kunstwollen)であったことを今一度思いだして欲しい。



混沌不測にして変化極りなき外界現象に悩まされて、これらの民族は無限な安静の要求をもつに至った。彼らが芸術のうちに索めた幸福感の可能性は、自己を外界の物に沈潜し、物において自己を味うということではなくして、外界の個物をその恣意性と外見的な偶然性とから抽出して、これを抽象的形式にあてはめることによって永遠化し、それによって現象の流れのうちに静止点を見出すことであった。彼らの欲求は、いわば自然的関係のうちから、即ち存在の無限の変化流転のうちから、外界の対象を取出すことである。対象において生命に依存せる一切のもの即ち恣意的な一切なものから対象を純化することであり、それを必然的ならしめ、確固不動のものたらしめて、存在の絶対的価値へそれを近寄せることである。以上のことを彼らが達成することができた場合、彼らは有機的・生命的な形式の美が吾々に与えるのと同じあの幸福感や満足感を得るのである。しかも彼らはそれ以外にいかなる美をも知らないからして、吾々がそれを彼らの美と名づけることが許されるのである。


(ヴォリンゲル『抽象と感情移入』より)※7

これ以上深入りするのは、これまたよそう。さて先に述べた批判、ワイドショー的言説はよしにして、科学者、学識経験者に対する批判について。システム論でも、脳科学でも、アフォーダンスでもよいのだが、これらは観察のあり方を劇的に変え、メカニズムの把握を飛躍的に向上させたことは認めるが、「現状を改めるためにどうすればよいのか」を問えないという欠陥がある。「個」、「主体」的な振る舞いを拒絶しているため、自ら行動を起こすことに抑制がかかり、事後追認的立場に留まらざるを得ないという点に苛立ちを感じる。


そういった意味でも《意志(力)》についての考察は必要だろう。ゲーテをはじめ、ショーペンハウアーニーチェについては今一度、復習する必要が大いにあると思う。


最後になるが、こういった問題に意欲的に取り組んできた若手研究者の論考を集めた冊子『ディスポジション』が今年6月に刊行された。私もシンポジウムに参加したが、上記の問題点を顕にしつつも、それを乗り越えるべく可能性もまた示してくれた。とりわけ柳澤田実「イエスの〈接近=ディスポジション〉    近づくという行為・行為の伝達」、大橋完太郎「心身の再配置のために    デカルト哲学における意志の発生と権能」が興味深かったこと、そして本稿自体がすでにその影響下にあることを付記しておく。



『ルカ福音書』のテキストは、そもそも「隣人」とは、「近いもの」を意味することをわたしたちに気づかせてくれる。しかも、イエスの主張に即して整理し直すならば、「近いもの」とは相対的に自分の近くに定位された誰かではなく、自ら「近づくもの」である。つまり「近づく」という身体的行為を担う者こそが「隣人」であり、この「接近」という行為こそが隣人を愛するということの中心をなしていると考えられる。「愛」が情動と強い関係を有することを前提とするならば、先のテキストにおいて見過ごすことのできない重要な言葉は、「憐れに思い」である。「はらわた」に由来するこの言葉は、分節化された感情である「同情」よりも一層直接的な情動のように思われる。




伝達された情動と行為のカップリングを、イエスの「愛」として捉えるならば、「愛」とは、理性によって統御可能な「意志」(※A)によるものでもなく、個々人によって能動的に担われるべき主体的な実践でもないことになる。つまり、イエスが実践した「愛」とは、他者への具体的な「近づき」によって直接引き起こされる情動と、それと緊密に結び付けられた行為のカップリングであり、別の言い方をするならば、情動そのものを介して伝達され、条件付けられ、学習される情動と行為の連結にほかならないのである。このように述べることで、「愛」を単純な学習行動の図式に回収する危険性があることを自覚しつつも、ここでは上述のように「愛」を理解することの意義の方を強調しておきたい。このように「愛」を解釈しなおすことにより、イエスによる「愛」の教示は、道徳的規範の教示とも、さらには私秘的で内面的な宗教的経験とも異なることが明らかになるのである。私たちが福音書の読解から解析した「愛」とは、行われるべき規範として知的に理解された後に意志的に実践される行為ではない。「愛」とは、他者からの「接近」を経験した者の情動が直接動かされることによってのみ伝達・学習されるのであり、またそれは学習した者の他者への接近として表出せずにはいられないものである。その意味で、イエスによる「愛」の伝達は、他者との共約不可能な内面的な宗教的経験に尽きるものでも決してない。


(柳澤田実「イエスの〈接近=ディスポジション〉    近づくという行為・行為の伝達」より)※8




※A 柳澤さんの言う「意志」は主体的行為と位置付けられ「主体(/客体)」といった近代的枠組みに留まる。本稿で拙者が言う《意志》とは区別されたい。


デカルトが称揚する精神の権力は、それ故、意志の絶対的な強さに依存するものではない。意志はむしろ、情念から生じるが故の弱さを有してさえいる。デカルトは、意志が情念にある仕方で依存していることを、次のような形ではっきりと表明している。


意志の働きも精神が自らに関係づける感動とよんでよいが、しかしそれは、精神それ自身によってひき起こされるものなのである


つまり意志も、その発生の観点から見れば、ある仕方でひき起こされた感動でしかない。その意味で意志は一種の情念でさえある。意志が情念と異なるのは、意志が自己原因的であること、すなわち、意志が自ら能動的に自らを触発することによって発生しているという点に存している。だが、身体論の側面からも見られたように、意志の自己原因性は、感覚・情念などによる外部からの触発のもとで、それを変換させる形で、いわば反動的にひき起こされたものでもあった。ここにおいて、心身結合という視座から見た意志の両義的な位相が明らかになる。意志が自己原因であるということは、身体に影響されない秩序のもとで意志が成立するという解釈を可能にする。他方、意志が情念の反動として生じるという側面や、さらにその意志自体、情念と共通する受動的な側面をもった「精神の感動」であるという言明は、意志が情念の一種であり、身体と精神との間で意志が生じ、機能するという構造を明らかにしているように見える。


(大橋完太郎「心身の再配置のために    デカルト哲学における意志の発生と権能」より)※9

ディスポジション:配置としての世界―哲学、倫理、生態心理学からアート、建築まで、領域横断的に世界を捉える方法の創出に向けて

ディスポジション:配置としての世界―哲学、倫理、生態心理学からアート、建築まで、領域横断的に世界を捉える方法の創出に向けて





2-2.『煙の先』(Aプロ)ヘラクレイトス




前川知大『煙の先』からヘラクレイトスを想起したのは、別段深い思慮があってのことではない。単なる類推である。登場人物が4名で「恋愛」の力について考察されていることから、ゲーテ『親和力』を想起し、この4名(ゲーテ『親和力』の主要登場人物も4名)というのが引っ掛かった。そして四元素という考えが思い浮かび、ソクラテス以前の古代哲学に頭が一気にシフトしたのである。


劇中、女A(カワイイ女)は言う。「わたしは《煙》。でも《火》じゃないわ」と(※13)。火をおこすときに立つ《煙》。火がついた(事件が起こった)ときにはすでに消えてなくなっている《煙》。なるほど。


私は古代哲学を入門書レベルでしか読んだことはないが、そこに見られる「アルケー(原理)」という考え方を好む。



アルケーとは、)「限界のないもの、永遠のもの、無規定のもの」、すべてを包括し支配するもの、有限で変化するもののあらゆる規定性の根柢にありながら自分自身は無限で没規定的なもの、と定義した。


アナクシマンドロスによるアルケーの定義)※10


哲学のはじまりをめぐる、アリストテレスの証言を引いておく。哲学の始原にかんして論じるられる場合に、かならずしたじきになっている文章である。


さて、あのはじめに哲学したひとびとのうち、その大部分は素材の意味での原理だけを、いっさいの存在者の原理であると考えていた。すなわち、すべての存在者が、そのように存在するのは、それからであり、それらのすべてはそれから生成し、その終末にはそれへと消滅してゆくそれ〔中略〕をかれらは、いっさいの存在者の構成要素であり、原理であると言っている。(『形而上学』第一巻第三章)


「素材」と訳しておいたギリシア語は「ヒュレー」であって、アリストテレスの用語としては「質料」のことである。ともあれアリストテレスはいま引いた文章のすぐあとに、問題の一文をしるしていた。「タレスは、かの哲学の始祖であるけれども、水がそれである、と言っている」。


文脈上、「水」がそれである「それ」とは、「原理」のことである。右では原理とかりに訳しておいた語は「アルケー」であって、「はじまり」という意味をもつ。アリストテレスの時代すでに、断片的な伝承だけが残されていたにすぎないタレスは、水こそがいっさいの存在者のはじまりであり、存在者が存在する原理であって、すべてがそこへと滅んでゆく終局であると主張していたというのが、さしあたりはアリストテレスそのひとの証言にほかならない。


熊野純彦『西洋哲学史 古代から中世へ』より)※11



西洋哲学史―古代から中世へ (岩波新書)

西洋哲学史―古代から中世へ (岩波新書)


西洋哲学史―近代から現代へ (岩波新書)

西洋哲学史―近代から現代へ (岩波新書)


「哲学の祖」と呼ばれるタレスは《水》を「アルケー(原理・元初)」とした。そしてヘラクレイトスは《火》を「アルケー」とした。



ヘラクレイトスが他の質料論者たちのように火をもって根本物質あるいは根本元素とした、というふうにとってはならないのは明らかである。(中略)ヘラクレイトスは世界を特定の段階と程度とにおいて消えたりまた燃えあがったりする永遠に生きる火と呼び、また、すべての物品が黄金と、黄金がすべての物品と交換されるように、すべては火と、そして火はすべてと交換されると言っているが、その真意は、火という休むことを知らぬ、すべてを破壊し変化させるエレメント、しかも熱によって生命をあたえるエレメントによって、永遠の変転の力、生命の概念をもっとも目に見えるような、力強い形で示すにすぎない。(中略)さらにかれは、火がまた個物の運動の原理であり、自然と精神の生動性の原理であると主張している。心そのものが一つの火気であり、その力と完全さは、それがすべての粗野でにぶい物質から自由であることにかかっている。(※12)

タレスが《水》を、アナクシメネスが《空気》を、ヘラクレイトスが《火》をアルケーとした。そして前川知大は《煙》をアルケー(原理・元初)とした。『煙の先』のクライマックスを振り返ってみよう。


男Aが男Bを今にも殺そうとせまっている。しかし男Aは男Bを殺せないでいる。なぜなら、男Aは女Aを救うために殺るのであって自らの意志で殺るわけではないから。男Aは女Aに促す。「殺せと言ってくれ。声に出して言えないのならゼッシャーでも何でもいい。そうだ、ピースサインでいい。やってくれ」と(※14)。その圧力に屈するようにして、女Aもまた自らの意志ではなく、怖ず怖ず「ピースサイン」をする。


ここで示された「ピースサイン」がすなわち《煙》であり、女Aの存在を物語っている。事件を引き起こしたのはこの「ピースサイン」(女A)であるが、「男Aが男Bを殺る=《火》」がおこった時にはもうピースサインは解かれ、姿を消している。(「ピースサイン」が示されると同時に絶望(死)がもたらされるという不条理はさらに難解なのでここでは扱わない。)


あくまで類推の域は出ないが面白い考え方だと思う。最先端ではなく、古代哲学の考え方であってもやはり面白いと思う。ここで問題なのは、新しいか古いかではなく、《手応え》があるかどうかである。


前川知大の作品には、確かな《手応え》がある。





3.イキウメ組織論



今回の公演が、「イキウメ役者部の自主企画公演」であったという特異性を指摘せずに論考を終える訳にはいかないだろう。


私は観劇歴が浅く、まだ30本程度しか観ていないが、役者が企画して立ち上げた公演というのは初めてだったし、これは実は大変なことだと気がついた。


芝居を観ていて気の毒に思ったのは、役者のスケジューリングの難しさである。例えば、その才能が認められ、めでたく劇団に所属できたとする。しかし多くの場合、劇団は1人の作家(演出家)によって組織されており、年間の公演回数はたかが知れている。作家が台本を書くのに1ヶ月、稽古に3週間、公演1週間として2ヶ月が1サイクル。フル稼働しても年間6公演。再演を組み込んだりしてうまくやり繰りしたとしても、作家は作家で食べていくために小説を書いたり、ワークショップを主催したりする(これは収益がないのかもしれない)ので、これ以上は難しいだろう。実際のところどうだろう。年間2〜6回ぐらいがいいところではないか。


しかも役者の職能は、ハードルが高い。1時間30分の芝居のセリフを毎回完璧に覚えなければならないし、役作りに没頭せねばならない。頭の切換え、リフレッシュのためのインターバルも必要だろうし、年中フル稼働というのは酷だろう。


私が観たところ、役者の多くは自身の所属する劇団の公演をこなし、スケジュールの空きを他劇団の公演に客演したり、オーディションを受けて埋め合わせている。それでも生活が成り立たないので普段はアルバイトをしているという感じだ。


このような厳しい環境で役者はいかにして自らの能力を維持し、また高めていくことができるのだろうか。もちろん役者の理想は「いかなる台本でもいかなる演出であっても見事にその役柄を演じてみせること」だから自身の所属する劇団の公演だけでなく、他劇団の公演にも出演することはよいことだろう。しかし、これも程度の問題だ。毎回コロコロ変わって振り回されていれば、自らの役者としての立ち位置を見失ってしまうことだろう。また自分自身で弱点を省みたり、課題を設定して克服していくというような、そんなスケジュールはおそらく組めないだろう。


こんな役者の現状をサッカーに例えたらどうだろう。所属しているチームは日本代表。年間の試合数はたかが知れている。それで普段はどうしているかと言えば、ある時はFC東京で、またある時はガンバ大阪で、湘南ベルマーレで、水戸ホーリーホックでプレーしている。「毎回ポジションが変わるし、戦術も変わるから大変だよ」なんて言っている。しかも毎朝新聞配達をやっているという感じだろうか。そんなサッカー選手がいたら見てみたい!


さて、そこで注目すべきが、今回イキウメがやった「役者部自主企画公演」である。役者が上演する台本を選び、自ら演出を行い、そして上演する(今回はたまたま、前川さん(イキウメ主宰)が他劇団に提供した台本をやっていたが、他の作家の台本を選ぶ可能性もあるようだ)。


この公演は、まず役者自身にとって良い。役者が自分たちで台本を選ぶ点が良い。「こういった作風の演劇に挑戦してみたい。こういった役柄をやってみたい。自分らしいと思うから。あるいは逆に苦手だから」と。通常の公演ならば作家、演出家が主導となるし、また客演の場合、役者たちはバラバラに出演することになるので、役者たちの間で問題意識を共有したり、また互いに能力を高めていくこともできないだろう。


また観ていても面白かった。役者が演出すると役者の問題意識が強く感じられ、作家&演出家とは違う感じの仕上がりであった。


今回上演された『煙の先』(Aプロ)の演出上の特長としてまず上げられるのは、道具の少なさである。椅子が1脚、テーブルが1台、ダンボール箱が2つ、鉢植えの花1本、スコップ1本、カッター1本、ペンライト1本、サランラップ約10本(ビニールハウスを表現)、こんなところだろうか。要するに、道具を使わないで自分たちの演技で極力表現しきろうとする役者の意思がストレートに現れているし、実際に成功していた。


それから1つ1つの演技の精度の高さ、細かさである。例えば、男B(犯罪者)が女A(カワイイ女・共犯者)が軽率な粗相をしでかしたと気付いたシーンで男Bがダンボール箱を思い切り蹴飛ばした。演出にひねりがないと言えばそうだが、これを見てすぐに「あっ、こいつ気付いたんだ」と分かった。また男A(さえない男)が女Aを前にして語っているシーン。男Aは熱く語っているが、女Aは気がないどころか苦痛に思っている。それを黙りながらも手を物凄い力でギューーーっと握っている女Aの姿からすぐに察知することができた。


役者が演出をすればこうなるという訳ではなく、おそらく今回は「1つ1つの演技をきっちりこなす」という方針だったのだろう。作家や演出家はこういった細かい点にはあまり気が回らず、もっと作品全体を方向づけることに気をとられがちなので、役者が演出する作品も新たな発見があって、観ていて新鮮だった。


もちろん、作家や演出家はいらないとは言わない。それはやはりダメだろう。私自身の経験に基づけば、建築の場合、現場に精通しているのは職人だけれども、彼らが自ら考えて作った建築がよいかと言えばなんとも言えない。やはり現場の知識は劣っていても建築家が設計した建築の方がよい。細かい説明は避けるがこれははっきりしている。


だから総合して評価すれば、役者部自主企画公演は、通常公演に比べたら劣る。ただし役者ならではの、通常公演にはない見せ場も多分にあるという評価に留まる。


ともあれ、《イキウメ》という劇団の組織は面白いと思う。主宰の前川知大さんは作家・演出家だから言うなれば監督のようなものである。これはどこの劇団も変わらないが、《イキウメ》の他劇団にない特長は、役者間の意思疎通が優れており、よって役者のレベルが総じて高いことである。直接聞いたわけではないのではっきりとは言えないが、おそらく浜田信也さんがキャプテンのような働きをしていて役者を取りまとめているからだと思う。


作家・演出家と役者とがそれぞれ自らの腕を磨きつつ、お互いの信頼のもと作品を創り上げていく。こんな《イキウメ》のような劇団が今後増えていって欲しいし、「役者部自主企画公演」を今後もなんとか成功させて欲しいと思う。私は観に行きます。








※1 2008年5月9日、吉祥寺シアターで上演された 東京デスロック『ワルツ マクベス』における多田淳之介さんと本広克行さん(映画監督)によるアフタートークの際の会場への質疑応答から。当時のコメントを若干修正して引用した。


※2 須藤元気風の谷のあの人と結婚する方法ベースボール・マガジン社 p.9.


※3 西山雄二「ジャック・デリダと教育 2:ジャック・デリダと人文学    「すべてを公的に言う権利」について」(ジャック・デリダ『条件なき大学』月曜社所収 p.150.) 


※4 石川忠司衆生の倫理』ちくま新書 pp.91-92.


※5 『ワイド版 世界の大思想6 カント』河出書房新社p.174を参照した。


※6 ジャック・デリダ『エコノミメーシス』未来社 p.11.


※7 ヴォリンゲル『抽象と感情移入』岩波文庫 p.35.


※8 柳澤田実編『ディスポジション』現代企画室 p.61、p.76.


※9 柳澤田実編『ディスポジション』現代企画室 pp.173-174.


※10 シュヴェーグラー『西洋哲学史(上)』岩波文庫 p.37.


※11 熊野純彦『西洋哲学史 古代から中世へ』岩波新書pp.4-5.


※12 シュヴェーグラー『西洋哲学史(上)』岩波文庫 pp.58-59.


※13 このセリフは正確に書き留めた訳ではなく多少異なる。


※14 同上





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阪根タイガース


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