マレビトの会『クリプトグラフ』


《テキスト完成版》(10月3日)




 マレビトの会





 クリプトグラフ



 作・演出:松田正隆


 球場:こまばアゴラ劇場


 チケット:こちら



感想文:《報告演劇とは何か》



松田正隆作品初観劇。


まず驚いたのは、上演後に松田正隆さんと若手作家(演出家)、松井周、神里雄大、杉原邦生、野村政之(アゴラ劇場制作担当)とのトークショーがあって、「この手の作品は感想を聞かれると答えにつまるだろうな」と思っていたのだけど、みんな松田作品と自分自身の創作を念頭に置いて、互いの違いや距離を押さえて、的確な感想をさらっと述べたことだった。


私は観劇していて、アフタートークで登壇していた彼らをはじめとする若手作家の作品と松田正隆作品との間には溝があるように感じたので意外だったし、私なら「この作品は演劇を見慣れた上級者におすすめします」などとついつい言ってしまいそうなのだけど、トークを聞いた感触から、ま、誰でもとは言わないけれど、気軽にふらっと来て見てみるのも案外いいんじゃないかとも思った。


『クリプトグラフ』は「分かりやすいか/分かりにくいか」と問われれば、「分かりやすい/分かりにくい」といった類いの作品ではないと答えるし、一言で言えば、分かりにくい作品だ。複数の都市について語られる(正確に言えば報告される)が、それぞれの関係性はあまり感じられず断片的で、ストーリーらしき導きはないし、舞台上の俳優の動きも唐突であり不可解である。セリフは発するけれども、ほとんど思いつきのようなことば(テキスト)であり、ある程度まとまって意味を成している場合でも独白に近く一方的で共有性がない。要するに分からない。


にもかかわらず、この作品が人前で演じられて、そして私たち(観客)が何かしらの実感を獲得しうるのはなぜか。私が松田正隆作品から享受したことを2点紹介する。






1.「舞台でものをしゃべる」というのはどういうことか



『クリプトグラフ』は現代美術的というか、舞台上で俳優が演じるだけではなく、テキストが提示されたり、図像や写真が映し出されたりして、「松田さんが何をやろうとしているのか」を考えたとき、演劇の舞台よりも美術家のジョセフ・コスースの作品を想起した。




 
  ジョセフ・コスース《一つの、そして三つの椅子》




ここで、コスースの《一つの、そして三つの椅子》を「認識論」として、いわゆる「プラトンの第三項」的な解釈ではなく、少々私独自に解釈してみる。


まず認識論においては、「目の前にあるもの(椅子)と私が思っているもの(椅子)とが一致する」ということが基本線であり、またこの原理を探究する(構築する)ことがその目指すところである。


この問いを探究して恐ろしく緻密な体系を構築したのがカントということになるのだろう(私は目下カントを学習中の身分であり、人様に説明できるレベルではないので細かくは触れない)。


さて。コスースの《一つの、そして三つの椅子》について。この作品で提示されているように、「目の前にあるもの」が同じ椅子であっても、それが実物であるかもしれないし、写真であるかもしれないし、テキストであるかもしれない。つまり「目の前にあるもの」自体にすでに差異(ズレ)が生じている。そして、この差異を回収することはできないし、またこの差異こそが認識に大きく作用すると考えられないか。


おそらく、この作品で提示されている「椅子」程度ならば差異を無視しても大した問題はないだろう。しかし、これが「戦争」だったらどうか。実際に体験するのと、写真でみるのと、テキストで読むのとでは、同じ「戦争」であっても「私が思う戦争」と一つに定まることはないだろう。そして、『クリプトグラフ』で探究されている「都市」も「戦争」と同様に、この差異は無視できない。



このように問題を整理した上で、『クリプトグラフ』において興味深いのは以下の点である。


この演劇のテクストは都市についての報告書である。


ここで報告される都市は架空の都市であるが、かつて世界のどこかにあったであろう都市の相貌を持っている。


また、この報告の中には、都市に住む人々の記憶も含まれている。それらは、私たちの知る世界の歴史に一度も記録されなかったものである。それゆえ私たちは知る術がない。


しかし、それらの記憶は、都市の遺物(あるいは廃棄物)として残されている。その遺物が発する暗号(クリプトグラム)のような秘められた文字を暗号受信器(クリプトグラフ)である俳優が読み取り音声化するというのが、この演劇で試みたかったことである。


松田正隆「演出ノート」より)


『クリプトグラフ』をコスースの《一つの、そして三つの椅子》で提示された対比に倣って区分すると以下のようになる。



実物 : 都市の遺物(あるいは廃棄物)


写真  舞台に投影される画像


テキスト  俳優の音声

あらかじめ断っておくと、この区分はいささか強引で、特に「舞台に投影される画像」は単なるイメージを垂れ流しているようで、コスースの《一つの、そして三つの椅子》でいうところの「写真の椅子」のように明確な役割を担わせていると言えるかは疑問である。


それはさておき、ともかく『クリプトグラフ』でもっとも興味深いのは、コスースの「テキスト」に該当するのが「音声」であるという点だ。そして『クリプトグラフ』という「都市についての報告書」において、なによりも私たち(観客)に届いてきたのが俳優が発するこの《声》であった(私たちに届いてきたのは、身体というよりもとにかく《声》であった)。



コスースの《一つの、そして三つの椅子》から引き出される「認識論」への問いに『クリプトグラフ』の「声」を加味してカントやあるいはデリダを読めば、難解な言説も活き活きとした実感を伴って身に付けられるかもしれない。5年計画ぐらいでやってみたい。






 2.都市の二重性



笹岡啓子(写真家) 広島や長崎、原爆というものをテーマとした写真の先輩たちはすでにたくさんいます。だからというわけではありませんが、たとえば、平和を訴えるとか原爆という出来事を忘れないようにしましょう、という目的での制作は、私がすることではないと思っています。むしろ、これまで名づけられてきた広島が抱えている二重性みたいなことに興味があります。長崎がどうなのかということは、後で松田さんにお話をお聞きしたいんですけど。たぶん、そこに住んでいる人にはあまり自覚がないけれど、かと言って外の人もなかなか気づくことができない。そこに住んでいて外に出た私だからこそ感じることができるもの。言葉にするのももどかしい微妙な二重性なんですけど、すごく重要なことだと感じています。


(笹岡啓子 × 松田正隆 対談より)

観劇前に配られるチラシに『marebito03』『marebito04』といったフリーペーパーが入っていて、これが本当に素晴らしい。


特に『marebito03』に掲載されている「笹岡啓子(写真家)×松田正隆」の対談がすばらしく、「笹岡さんはいいこと言うな」と一々感心して「彼女の作品をぜひ観たい!」と思ったのだけど、なんとすでに観ていた。《VOCA2008》。笹岡作品は長らく写真を観ることをためらっていた私を写真へと向かわせた決定的な作品なのであった。


また、一般へは配られていない『こまばアゴラ劇場支援会員通信4』に掲載されている「松田正隆×杉原邦生」の対談もすばらしい。


双方から1ヶ所ずつ引用しておく。


 《 笹岡啓子 × 松田正隆 》対談より



松田 笹岡さんが公園に惹きつけられるっていうのは、どうしてでしょうか?


笹岡 あの公園(広島平和記念公園)は、自分にとっては当たり前としてきた場所なんだけど、外に出たときに全然当たり前の場所ではないようにみえた。そういうとっかかり、きっかけの場所なんです。撮影のために毎日公園の周辺をぐるぐる周っているんですが、あそこは復興もして、発展もして、人もこれだけ生まれて、日常的にたくさんの人が歩いている場所であると同時に、メモリアルな場所として観光客も大量にきています。それこそ観光業自体が落ち込んでいるのに、あの場所を訪れる観光客はすごく増えています。資料館にも嘘みたいに行列ができている。原爆以後に生まれてそこに生きている人たち、それ以前からそこに生きている人たち、観光として訪れる人たち。それぞれもっているものになにかズレがあって、そのズレのためにまた「ゼロ」に戻っていく。どれだけ復興しても、どれだけ平和だとしても、いつでも、きっといつまでも、そこに戻されてしまうという感覚があるんです。


松田 戻される? 何が「ゼロ」に戻るんだろう? 広島には、いろいろな人々がいる。たくさんの観光客や、そこに住んでいる人たちがいる。新しく生まれた人や、戦前から生きている人、その中には被爆者もいる。さまざまな層がある。


笹岡 なんていえばいいんだろう・・・。時間の速度というのかな。発展していく現在とは別に、もうひとつの時間があるように感じるんです。それはなかなか実感しにくいことかもしれないけれど、広島という場所に、ある種、自覚的に住んでいる人は感じたことがあるかもしれません。時計の秒針と時針みたいに、現在は音をたてて主張しながら進んでいくんだけれど、もうひとつの時間はまるで進んでいないようでいて、でもふと見ると針がわずかに動いている。そういう速度の違うふたつの時間軸がふとした拍子に重なったりすると、とたんに「ゼロ」に戻されてしまうような。


松田 忘れさせてくれないってことかな? 発展しないような仕組みになっている?


笹岡 そうですね。逆に忘れるなと声高に言えば言うほど歪んでいく。むしろ言わなくても忘れさせてくれない時間がつねにすでにあった。発展の仕方も奇妙な方向に進むわけです。それこそ、平和都市建設法、平和の象徴として復興しましょう、ということを住民たちの投票で決めたわけですし。


松田 引き戻す「ゼロ」の時間があるってことかな?


笹岡 まるで止まったまま、もしかしたら進んでいたり遡ったりして、行ったり来たりしているような時間がどこかにつねにある。それが忘れさせてくれないとかそれを忘れてはいけないということとは違って、ずっと「在る」ものといえばいいですかね。

 松田正隆×杉原邦生》対談より



松田 団塊とか僕の世代と、1970年代後半から80年代後半に生まれた世代というのは、なんか明らかに違うな、ていう感じはするんだよね。


クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲』(2001年公開)ていう映画があって。万博が出てきて、「20世紀博覧会」ていうノスタルジーの世界があって、そこが匂いを発していて、そこに大人が入っていってしまって、しんちゃんの住んでいる春日部という町が子供だけになってしまう、という話なんだけど。


そこで、現実の側に引き寄せる力というのが、父親の靴の匂いとかそういうもので、「甘い匂いだけじゃなくて頑張ってきたお父さんの匂いがあるでしょ」とかやるんだけれども、しんちゃん自身がそれに抵抗する力がないわけね、子供だから。しんちゃん自身は身体でしか「昭和のノスタルジー」の幻想には抵抗していなくって、闘うシーンでも彼は走るだけなんだけれども。「家族のなかにさえ共有する記憶がない、その無さ」と「個に戻った時の身体」みたいなのが面白かったんだけど。


「21世紀」ていうのが無味乾燥で、「21世紀なんかダメだ!」ていうことで「20世紀博覧会」が開かれるんだけれども。「21世紀なるもの」への抵抗だよね。でもしんちゃんには昭和の記憶もなにもない。その懐古主義と、それを突き破る方法、21世紀をどう生きていくか、みたいなのを考えているのが面白いんだよね。


安易にノスタルジーのなかに溶け込んでいくような傾向が、いま演劇にもそのほかの文化にもあるような感じがするんだけれども、そこへの異議申し立てをしていく必要があるんだろうな、という。


杉原 ノスタルジーっていう話で、松田さんは、自分の作品において、ノスタルジーってどう捉えてますか? この前の『声紋都市 ー 父への手紙』(2009年3月に伊丹と東京で上演)とかも、あきらかにそういう感じがしましたし。


松田 ずっとノスタルジーをテーマにしてきたような気はする。放っておいたら自分を引き寄せていくようなもの。「記憶」とかもそうだけれども。


僕は長崎で生まれて、最初の原風景を見た時のどうしようもない落ち着きと哀しみみたいなものがあって、そこで見るもの、聞く音にしてもそうだけれども、自分の身体を溶かすというか、自分を出自のなかに溶け込ませるというか。それが牧歌的なものとかそういうものに回収された時に怖いことになるというか。そのパーソナルな部分と、そのなかにあるなにか違和感。そのことが自分のなかにどうしようもなく記憶としてある、ていうのが、自分の先天的な、選べない出来事に対しての「自分の身体とともに備わってる記憶」みたいなものに興味あって。それをどう変容させるか、ていうことを考える。自分の中に引き寄せていくときに変容させて、ズレていってどう自分の表現に変えていくか、ていうところにすごく興味があるんだな。杉原君は、作品つくるときにそういうのってある?


杉原 僕はね、そういうのが全然ないんですよ。たとえば寺山修司とか、太田省吾さんにしても、「自分の原風景のことを作品化したい」とかいってるじゃないですか。それは僕が演出しかしないからかもしれないし、年齢・世代のこともあるかもしれないしわからないですけど、まったくそういうことに引っかかっていかないんですよね。僕の原風景、ていうと思い出すのは、僕団地で生まれたんですけど、ほんと都会の団地で、そこに強烈ななにか引き寄せられるものは感じないし、作品つくってるときでもそれを感じることはないから、そこは不思議だなって思って聞いてたんですけど。


たとえば、この前のりたーんずで、「14才」てものをテーマにしてやったときに、かなり具体的に自分の過去、ていうものをとっかかりにしてつくっていっていた人もいたから、必ずしも世代がそうだ、ていう感じでもないと思うんですけど。


松田 その「ない」ていうことはなんなのかなぁ


杉原 たぶんあるのはあると思うんですけど、引っかかっていかないっていうか。



この4つは私にとって大きな収穫。


 『クリプトグラフ』上演作品


 『クリプトグラフ』テキスト


 「笹岡啓子 × 松田正隆」対談


 松田正隆 × 杉原邦生」対談


ここ1年程で出会った様々な本とも繋がり、何か突き抜けられそうな気がする。すぐにとは言わないが、じっくり取り組みたいと思う。






記憶から歴史へ―オーラル・ヒストリーの世界

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それでも、日本人は「戦争」を選んだ

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吉村朗 SPIN モールユニットNo9

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