神里雄大論ノート




  



えーと、岡崎藝術座・新作公演『(飲めない人のための)ブラックコーヒー』が、2013年6月14日〜7月15日まで、東京〜京都〜熊本〜鹿児島で行われるのですが、公演前に、制作担当の野村政之さんから、「神里くんの芝居についてインタビューをしようと考えています。阪根さんにもお話をうかがいたいなあと思ってましてお時間いただけないでしょうか?」と連絡があったので、そりゃもちろんOKしました。それで5月6日に会って話して、そのあと野村さんに原稿をまとめてもらって、僕も校正したりして、無事ウェブにアップされました!


 観た人の岡崎藝術座



2人目:阪根正行(元書店員/アラザル同人)全三回


第1回


第2回


第3回

これは僕にとってもちょうどいい機会で、前々から神里雄大の作品についてはずっと気になっていて、いつか書こう、いつか書こうと思いつつ、なかなか書けないでいたんですね。それがこうやって、インタビューとして、また聞き手の野村政之さんじしんの思考をも引き出しながら、立派な原稿になりました。


ま、これだけでもう十分なのですが、この原稿に収まりきらなかったこともあるし、このインタビューの前後に、頭がビビビって、いろんなことを考えたので、その記録をブログにまとめておきます。まだ追加されるかもしれません。ではでは。(2013年6月2日現在)






   5月6日(月)インタビューのあと




【演劇】《神里雄大(岡崎藝術座)の芝居について・1》


ふたを開けたら、3分どころか2時間以上延々と語り合っていた。「演劇で面白い若手、誰かいない?」と聞かれて、思いあたる人が何人かいるのだけど、そのなかでも神里雄大は異質。一言で言えば、「わからない」。

【演劇】《神里雄大(岡崎藝術座)の芝居について・2》


きょうは、『ヘアカットさん』の時に書いた、南米のこと、俳優のこと、このあたりが話の展開の軸になった。


『ヘアカットさん』感想

【演劇】《神里雄大(岡崎藝術座)の芝居について・3》


神里雄大の「分からなさ」を改めて1つ1つ確認していく話し合いだった。ただ分からなさは否定しようがないのだけど、観る側がちょっと怠けているようにも思う。もっとちゃんと本気で観ないとそりゃ分からんわ。

【演劇】《神里雄大(岡崎藝術座)の芝居について・4》


僕は、とりわけ『ヘアカットさん』、『古いクーラー』の戯曲をもう一度ちゃんと読み直そうと思う。

【演劇】《神里雄大(岡崎藝術座)の芝居について・5》


とにかく一度観て欲しい。特に中南米の文学に興味のある方はぜひ☆ 岡崎藝術座『(飲めない人のための)ブラックコーヒー』(6/14-7/15|東京〜京都〜熊本〜鹿児島予約受付中




   5月26日(日)




【岡崎藝術座】


インタビューの時にも話したんだけど、ずっと気になっていた神里雄大の戯曲『ヘアカットさん』と『古いクーラー』の再検証もきょうはやろう☆


【神里雄大論】(1)


神里雄大の戯曲『ヘアカットさん』と『古いクーラー』の再検証の方は苦戦★ どうしようかな??? いきなり次の手が出てこなくなったのだけど、ヒントになったのは大崎清夏さん(詩人)のことば☆

【神里雄大論】(2)

 観た人の岡崎藝術座



1人目:大崎清夏さん(詩人)全三回


第1回


第2回


第3回

【神里雄大論】(3)(4)(5)(6)(7)

   以下引用



―大崎さんが神里くんのテキストについて感じてることはありますか?


大崎:テキストだけで組み立てられる人なんだな、って思います。「何かをうまく描写する」「ここにあるものを書き写す」っていうことじゃなくて、「テキストに全部の世界がある」っていうことが見えてる感じがするっていうか。


―言葉で為したことが世界になる、という。



大崎:言葉以外にはなにもないことがわかってるというか。「うまく言えない」っていう言い方があるじゃないですか。「うまく言えない」というのは、何かがそこにあって、それをうまく言葉にできない、っていうふうに考えることだけど、そういうふうには考えてなくて、うまくいくもいかないも、言葉のレベルでしかない。神里くんがどういうふうに考えてるかわからないけど、言葉がある場所でしか起こらないことがされてる。

【神里雄大論】(8・終)


僕のなかからは、大崎さんのこの言葉は出てこなかったのであった(合掌)

【日曜日】


あとアイロンしたら終了。いい一日でした☆ きょうはNY論はうまくいったけど、神里雄大論は進まなかったから、ま、この曲を聴きながら寝よう。おやすみ☆







   6月2日(日)




【神里雄大論】(続1)

 観た人の岡崎藝術座



2人目:阪根正行(元書店員/アラザル同人)全三回


第1回


第2回


第3回

【神里雄大論】(続2)

 観た人の岡崎藝術座




説明するのが難しい箇所があったので、『未来回路4.0』神里雄大インタビュー「揺らぎに留まること 〜言葉を演出する身体〜」
(聞き手 中川康雄)の一部を引用して、最後に註釈として加わりました。





   第3回

【神里雄大論】(続3)


野村政之さんとの話し合いで、神里くん、多和田葉子さんの問題意識の延長上のことで、原章二『二つの言葉の町 モントリオール』の話をしたのだけど、その時はうまく話せなかったからここで改めて。



   


【神里雄大論】(続4)


この本は、フランス研究者の原章二さんが、研究休暇を利用して、カナダのバイリンガル都市・モントリオールに滞在した時のことが書かれたエッセイ集。

【神里雄大論】(続5)


原章二さんは、フォシヨン〜キューブラー〜バクサンドール,etc. いわゆる美術でいうフォーマリズムの先駆けとなるあたりの文脈を調べていたときに出会った学者。実際に会ったことはないけど。

【神里雄大論】(続6)


原章二さんはフランス語ができて、英語もできるけど、フランス語の方が、また文化的にもフランスの方が身に染み付いているという人。そういうバックボーンの人がカナダ・ケベック州モントリオールに行く。

【神里雄大論】(続7)


今、世間で言われているグローバル人材というのは、英語ができる人のことだ。例えば、フランス語を勉強したり、ドイツ語を勉強することをグローバル化とは言わない。なぜなら効率が悪いからということらしい。

【神里雄大論】(続8)


でも本来、効率とか英語ができるか否かはどうでもいい話で、グローバル人材というのは世界を感じ取る力がある人のことだ。世界を感じ取るために手っ取り早く英語を身につければ、それでいいのか? 英語を身につけることで逆に世界が見えなくなるなんてこともある。

【神里雄大論】(続9)


カナダ・ケベック州モントリオールというのは、英語とフランス語のバイリンガル都市。このバイリンガル都市の成立にいたるカナダの歴史的背景について、ここでの説明は割愛する。

【神里雄大論】(続10)


日本に住んでいる限り、バイリンガル都市を経験することはできないので、モントリオールがいったいどうやって成り立っているのか? そのことを知ることができるというだけでも、原章二さんの『二つの言葉の町 モントリオール』は面白いし、貴重だ。

【神里雄大論】(続11)


ただモントリオールについての記述も確かに興味深いのだが、それ以上に、この本の何が素晴らしいかと言えば、原章二さんが途中、キューバを旅するシーンがあって、そこがとにかく素晴らしいのだ。

【神里雄大論】(続12)


私たち、日本人がキューバと聞かれて何を思うか? ほとんどイメージできない。カリブ海にある島国で、社会主義体制が崩壊状態で、貧しくて、政治的にはアメリカと対立していて… せいぜいその程度だろう。

【神里雄大論】(続13)


おそらくキューバアメリカとの対立の図式で見ようとする人がほとんどだと思うのだけど、原さんの場合は、そこにカナダという視点が介入してくる。そうなるとキューバを通じて見えてくるものが劇的に変化してくる。これは逆に先入観なしで見てもなかなか見抜けない。

【神里雄大論】(続14・15・16・17・18・19・20)

以下、原章二『二つの言葉の町 モントリオール』(彩流社)pp.69-70. から引用。



しかしカナダ人がキューバに関心があるのは、単に政治的経済的理由からだけではないだろう。広漠たる国土でアメリカ国境沿いの「南」にのみ人口が集中するカナダは、かつてスペインのある詩人に「緑の蜥蜴」と呼ばれ、カリブの空と海に大きく開けたこの正真正銘の南の島に、否応なく惹かれるのだ。理由はおそらくまだある。多文化主義を掲げるカナダでは、さまざまな出自の移民が増えれば増えるほど、「建国の二民族」を自任する英系と仏系との間で確執が深まっている。主導権争いだ。とりわけケベック州においてそうなのだが、西欧的な論理は、自己勢力の安定的優位下での相手あるいは異分子は許せるが、文字通りの混淆はめったなことでは許さない。


これに対して、どうやらキューバの「多」の元には、「一」もなければ「二」もない。カナダ人なるものは国籍としての存在だが、キューバ人は生活者として存在する。キューバ人として現実に生きている。先祖がどこの出であろうとも、この島に住んで生活の哀歓を分かち合うかぎりキューバ人なのだ。そのとき、ルーツは意味をなさない。というより意味のあるルーツとは、出自の確かさをいうのではなく、文字通りこの地にじかに根を下ろしている否か、この「緑の蜥蜴」とともに微睡みつつ生きるすべを心得ているか否かの問題となる。

キューバについてかかれた第7章は全部抜き出して引用したいくらいなのだけど、とりあえずもう1箇所だけ引用しておきます。

原章二『二つの言葉の町 モントリオール』(彩流社)p.71. から引用。



ともあれ、ここで注目すべきは、「原」的なものが抹殺され、それに代わるものがはじめから「複合」として出現したことである。良きにつけ悪しきにつけ、キューバの人口学的現実は根っこから多元なのだ。文化についても同じことがいえる。たとえばキューバ音楽サルサは、この島の民族音楽にジャズとロックが結びついてできたものだ。しかし、その民族音楽なるものが、そもそもこの島の原産ではない。それ自体が、始原から切断されたもの同士の混淆から生じている。こうしてサルサキューバに生育して、ニューヨークで花を開いた。


これに対するカナダだが、そこでは固有文化についての議論が喧しい。そのときこれぞカナダ産としてもち出される文化人がいる。音楽でいえばグレン・グールドオスカー・ピーターソン、ぐっと下ってセリーヌ・ディオン。しかし彼らの音楽は、すでに存在する西欧的な尺度と価値体系の内部での純化や進化や開化であり、サルサのように統合を求めずただひたすら拡散する原初的複合として登場したわけではない。


混淆とは、単に多くのものが混ざっていることではなく、もののさまざまな差異の諸段階が同時に存在していることだろう。そうした多様なものに外からモノサシを当てて、価値を計りつつ統合するなど無益なことだ。一見バラバラで無価値なものこそ、手を差し伸べ合い、相互に重なり合って、空虚な人生を輝かしくする。







  神里雄大 過去公演



岡崎藝術座『まちなどない


岡崎藝術座『古いクーラー


鰰『動け人間!


岡崎藝術座『リズム三兄妹


岡崎藝術座『ヘアカットさん


神里雄大グァラニー










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